前説

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米津玄師がおよそ3年ぶりにリリースした「STRAY SHEEP」。

日本語訳すると、迷える羊という意味になるこのアルバム。

この記事では、そんな米津玄師の「STRAY SHEEP」についての感想を書きたい。

本篇

アルバムの印象

自分は、このアルバムに妙な物悲しさを感じた。

というよりも、米津玄師ってどれだけ大衆的になろうとも、ある種の陰を持ち合わせるアーティストなんだろうなあと改めて感じたのである。

つまみ食いように音楽を聴き、“コミュニケーション”のために音楽を聴く人が世の中の多数派だと思う。

こういう多数派に見つかったからこそ、米津玄師は爆発的なヒットを生み出すことができた。

その一方で、きっと米津玄師の初期曲から早い段階で感銘を受けた人は、どちらかというと、内向的な人が多かった気がするのだ。

売れてしまうと、どうしても、前者に目配せする作品を作ってしまう人が多い。

けれど。

米津玄師の今作は、きちっと後者の人に眼差しが向いた音楽なんだろうなあ、と感じたのである。

その眼差しにこそ、自分はある種の物悲しさを覚えた次第なのである。

「カムパネルラ」の話

アルバムの冒頭に収録されているのは「カムパネルラ」。

イントロはなしで、いきなり歌い出しから始まることが多い米津玄師の音楽において、この歌は20秒ほどのしっかりとしたイントロがある。

確かにどんなアーティストでも、アルバム冒頭では、しっかりイントロを入れがちだ。

仮にアルバムの最初の歌もの曲でイントロがなかったとしても、一曲目はサントラにしており、実質それがイントロの役割を果たしていることも多い。

そう考えると、イントロがしっかりある「カムパネルラ」を冒頭に持ってくるのは、定石にのっとった感もある。

大ブレイクしたからこそ、ある種の定石にのっとった売れ線アルバムの構成のしたのだろうか。

もちろん、そんなことはない。

なぜなら、「カムパネルラ」はびっくりするほど定石的な歌ではないからだ。

例えば、アルバムの冒頭の歌って、これから1時間連続するアルバムの体験を退屈なものにさせないようにするため、勢いのあったり、疾走感を持っている歌を持ってくることが多い。

今作の米津玄師の歌でいえば、「TEENAGE RIOT」のような感じの歌。

でも、米津玄師はそういうことはしない。

「Lemon」という歌でもって、明らかにパブリックな存在になった米津玄師であるが、冒頭の歌はそのイメージに引っ張られない独特な世界観とサウンドの意匠で身にまとった「カムパネルラ」の歌を用意したわけだ。

何をもって「ポップソング」とするかは人によっては違うけれど、少なくともサウンドの意匠はまったくキャッチーではないと思う。

日本のヒットソングに限定すれば、米津玄師の音楽でしか聴かないようなタイプの音が炸裂している。

曲のアレンジに独特のクセを感じるのは、アレンジャーとして加わった坂東祐大の果たす役割も大きいが、そこは一旦置いておこう。

「カムパネルラ」でもうひとつ気になったのは、歌詞の方向性である。

歌詞を読んでもわかるように、この歌は人が持っている「傷」にスポットを当てた歌になっており、その「傷」を肯定するようなセンテンスが並んでいる。

お笑いでいえば、ぺこぱのブレイクに象徴するように、傷つかないような方向の言葉選びをするのが、歌詞においてもある種のトレンドになっている。

でも、「カムパネルラ」が単なる肯定の歌かといえば、そんな印象もなくて。

肯定の仕方も、ポジティブシンキング100%って感じではなく、迷いや不安を内在しつつも、なんとかそれを肯定的に捉えました、というような妙な揺らぎを感じるのである。

言ってしまえば、この歌からは「傷を肯定するというポジティブさ」よりも「なんとかポジティブであろうとする精神的な揺らぎ」を強く感じてしまうのである。

メッセージ性よりも、心の機微が全面に出ているというか。

こういう繊細こそが、米津玄師の歌が内向的な人に刺さる所以だったりするわけだけど。

冒頭の歌から、そういう片鱗をひしひしと感じるのである。

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やがてネガティブの中から見つける光

このアルバム全体の印象は物悲しさである。

基本的に、歌全体がちょっと悲しみに覆われているというか、そこまで明るい歌が少ない。

少なくとも、自分はそう思っている。

かといって、ネガティブ一本で突き進むのかといえば、そんなことはないのがこのアルバムの特徴である。

このアルバムのタイトルが「STRAY SHEEP」であるのは、そういうポジティブとネガティブの迷いを表現した言葉なのかもしれない。

さて。

アルバム冒頭は、わりと光すらも見えづらい諦念に覆われている印象を受ける。

「Flamingo」もよくよく歌詞をみれば、けっこう諦念な眼差しが炸裂している歌である。

天気で言えば、曇天のような感じ。

そういうテンションの歌が、冒頭はわりと続いている。

けれど、中盤に差し掛かるにつれて、そっとそんな雲の合間に光が差し込まれていく心地を覚えるのだ。

「PLACEBO + 野田洋次郎」では駆け落ちのように惹かれ合っていく二人を描き、「パプリカ」ではあなたに対して屈託ない気持ちを捧げ、「馬と鹿」では愛を叫ぶ。

これもある種の光と言えよう。

でも、そんな光の言葉の中には、どこか常に陰も見え隠れしているのだ。

やがて、その正体はこれだと言わんばかりに、差し込まれるのが「優しい人」という歌である。

この歌は、とにかくサウンドの雰囲気も、歌詞の内容も、悲しみに包まれている。

何より、心の中にある黒いものを率直に表現している印象を持つ。

ただ、この歌は全てを吐き出しつつも、最終的に

綺麗になりたい あなたみたいに

というセンテンスで終わりを迎える。

ここで、アルバムの「迷い」の方向が大きく変わる。

この歌のあとに続くのが、大切な人との出会いと別れを描いた「Lemon」であり、その次が、まちがったことで大切なあなたに出会えたこと描く「まちがいさがし」なのが象徴的である。

心に宿していた黒いものが形を変えて、迷い続けていた何かが表情を変えていく。

だからこそ、あなたに対する眼差しも大きく変わっていくと言わんばかりに。

これを決定づけるかのように、アッパーな「ひまわり」が流れることで、アルバムの空気ががらりと変わる。

そして、次に登場する曲が、アルバムタイトルはもちろん、アルバムのジャケットともリンクするタイトルの「迷える羊」。

ここで「迷える羊」を持ってくるのが何よりも象徴的だし、メッセージ性のピークなのではないかと思うのだ。

歌のサビのフレーズも印象的である。

特に、

君の持つ寂しさが遥かの時を超え
誰かを救うその日を 待っているよ ずっと」

のフレーズが印象的で。

その言葉が持つ意味もそうだけど、このサビが「」で括られているところが、何よりも印象的なのだ。

つまり、このフレーズは歌の書き手が書いた言葉というよりも、書き手が誰からもらった言葉であるというふうに捉えられることができるわけで。

仮にこの歌の主人公が羊だったとすれば、サビのフレーズは羊が述べた言葉ではなく、羊があなたからもらった言葉という意味合いが増すわけだ。

もっと言えば、この羊を米津玄師に置き換えてしまえば、このフレーズだけは米津玄師の言葉というよりも、米津玄師が昔誰からもらった言葉を引用する形で表現したといえるのである。

つまり、このサビに出てくる君は=羊=米津玄師という図式に置き換えることができるのだ。

「迷える羊」が出てきたサビのフレーズは、米津が米津自身に問いかけた言葉のように見える。

だからこそ、ここからアルバムの空気も変化していくのだ。

自分もアルバムも、そうあるべきではないのか、と言わんばかりに。

だからこそ、アルバム全体もここが分岐点となって、寂しさを超えて<誰かを救う>モードに切り替わっていくのである。

ラストに飾られる「カナリヤ」が指し示すのは、もうあの頃=鬱屈とした作品を作っていた日々に戻れないけれど、それを受け入れてあなた=このアルバムの聴き手と、突き進むことを宣告する未来なのである。

言ってしまえば、寂しさを超えて誰かを救うことを米津玄師が受け入れて、その意志を自分の言葉ではっきり示したのが「カナリヤ」という歌なのではないか。

そんなことを思うのである。

まとめに替えて

ここから音楽的な部分を掘り下げて、よりアルバムの話をしようと思ったけれど、自分がこのアルバムに感じた概要を描くだけでも相当な言葉を使ったので、一旦この記事はここで締めくくりたいと思う。

あえて暴論としてこのアルバムをまとめると、このアルバムは悲しさと希望の迷いを描きつつも、最終的に「希望」を選び取った勇気が垣間見れるのだ。

確かに迷っているさなかに漂うのは、悲しみの片鱗である。

それが冒頭で述べたこととリンクした感覚なのである。

でも、「迷える羊」で自問自答していき、「カナリヤ」で明確な意志を示すことで最後は「希望」に着地させた、そんな印象を受けるのである。

「Lemon」という大ブレイクのあとも、大衆に媚びを売るような軽薄な作品を作るのではなく、キャッチーでありながらも内面に問いかけつつ、音楽的なユーモアを忘れることもなく、自分の作家性を研ぎ澄ませた米津玄師だからこそ、作ることができたアルバムなのだなーと改めて思うのだ。

まだ、このアルバムを聴き始めて一週間ほどの感想である。

この段階で、アルバムの総論を結論づけるのはきっと早すぎることなのだと思うし、きっと2020年が終わる頃、再度このアルバムをじっくりと聴けば、きっとこのアルバムの表情もさらに変化しているのだと思う。

その変化を大事にしながら、末永く聴いていきたい。

だからこそ、このアルバムの続きの感想は「その時」まで、今は取っておきたい。

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