米津玄師「ナンバーナイン」の歌詞の意味は?解釈と考察!

米津玄師の新曲「ナンバーナイン」の歌詞について考えてみたい。

ロッキンなんかの雑誌を参照すれば、色々と「ヒント」になることは書いているのだろうが、今回はあえてそういうものには一切目を通さず、勝手な予想をたてながら解釈するので、見当違いかもしれないけれども、ご了承くださいな。

作詞:米津玄師

1番の歌詞について

歩いていたのは砂漠の中 遠くに見えた 東京タワー
君の抱いていた ボロいテディベア 笑ってみえた
どこへ行こうか

東京タワーと砂漠という、本来ならば繋がるはずのない言葉がいきなり続くのにドキリとする。

なぜ東京と砂漠がリンクしてしまうのだろうか。

ボロいテディベアが笑うのもなんだか不穏な空気を感じさせるし、砂漠と東京タワーといい、それぞれの言葉がまったくリンクしてこないあたりも不穏なものである。

それぞれを比喩と受け取って、意味を当てはめることもできなくはないが、とりあえず、歌詞の続きをみてみよう。

海みたいに 砂は燃えた
かつてはここで 人が生きた
先を急いだ 英智の群れが
壊したものに 僕らは続いた

「海みたいに砂が燃える」とは不思議な表現である。

そもそも海は燃えないのだから。

ただ、「先を急いだ英智の群れ」とは環境破壊を気にも留めず近代化を押し進めたヒトたちのことを指しているように感じるし、「壊したものに僕らは続いた」は、環境破壊をした惑星で今僕たちは生きていることを予感させるようなフレーズに感じる。

つまり、環境破壊の結果、東京の近くも「砂漠」になってしまったのではないか、ということである。

そして、砂漠になってもなお、砂を燃やすようなマネをしたのかもしれない。

例えば、戦争とかで。

だから、かつては人は生きていたけど、今はもうここには生きていないのだ。

惑いも憂いも化石になるほど 嘘みたいな未来を想う
切なくなるのも馬鹿らしいほど 優しい未来

ここのフレーズはつまり、優しい未来なんてもう来ないことを予感させる表現である。

砂漠になる東京の方が、そこに人なんていなくなる方が、むしろ現実的であることを予感させるフレーズである。

恥ずかしいくらい生きていた僕らの声が
遠く遠くまで届いたらいいな
誰もいない未来で起きた呼吸が
僕らを覚えていますように

ちゃんと命のバトン、この惑星で生命が生きているというバトンを、自分たちのまわりが誰も生きていないくらい先の未来にも繋ぐようにしたい、とここでは書かれているように感じる。

僕たちが生きていたことすら遠い過去になるくらい先の未来になっても、僕たちが生きていたことをしっかりと認識してもらえるような「発展」の仕方をしていきたいというわけである。

例えば、原発でどかんとしてその土地に人がまったく住めなくなってしまうのはダメなのだ。

例えば、戦争をやらかしてすべてを焼野原にしてしまうようなマネにしてしまうのはダメなのだ。

環境を破壊してこの惑星をダメにするのではなく、しっかりと自分たちがいなくなったあとでも、優しい未来を残したいというわけである。

2番の歌詞をみてみよう。

2番の歌詞について

眩しくてさ 目を閉じたんだ
枯れた川を 辿りながら
ほんの向こうで 君の声が
呼んでいたんだ 確かに僕を

ここで君という言葉が出てくるが、僕が今を生きている人ならば、君は過去に生きた人だと思われる。

今は川だって枯れているようなその場所も、ささやかに植物が生きていたりして、それをみてここでも昔は人が住んでいた文明を築いていたんだなあ、と感じるみたいな。

一番のサビは今から未来について書かれた歌詞だったが、このフレーズは過去と今のことについて書かれた歌詞であるように感じる。

未来と過去が 引っ張り合うんだ
か弱い僕らの 両手を掴んで
痛むことが 命ならば
愛してみたいんだ 痛みも全て

ここのフレーズでは過去と未来のことを両方について書かれてある。

痛みもすべて愛するからこそ、惑星は惑星のままでいられるのだろう。

嫌なものを排し続けたらこの惑星はあっという間にダメになってしまうだろうから。

いまだに心は不揃いなままで 息苦しくなる夜もある
言い訳みたいな美意識すら 消えちゃう未来

言い訳みたいな美意識が具体的に何を指すかはわからないが、そんなことすらいってられなくなるくらいディストピアな未来が訪れる可能性を予感させるフレーズ。

原発が事故って、人が入れなくなった地域なんて、まさしくそういうことだろう。

砂に落ちた思い出が息をしていた
遠く遠くから届いていたんだ
誰もいない未来の僕らの声が
美しくあれるように

未来を残す。未来のために今自分がするべきこととはなんだろうか。

自分や自分の周りがいなくなったあとでも、ちゃんと未来の人間がしっかりと暮らせる環境を、美しいままであれる環境をつくるために、今生きている人たちができることとは何だろうか。

そんなことを感じさせるフレーズであり、すごく広い射程で「未来」のことを考えているフレーズであることは間違いないだろう。

Cメロ~大サビ~まとめ

何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に
僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね

要は今自分がこうやって生きていけるのはたくさんの先人たちが色々考え、色々と行動してきたからなわけだ。

発明や自然破壊や戦争も含めて。

そして、僕たちも同じように色々なことを未来のために考えていかなければならないわけだ。

何を選択し、何を守り、何をあきらめていくのか、を。

恥ずかしいくらい生きていた僕らの声が
遠く遠くまで届いたらいいな
誰もいない未来で起きた呼吸が
僕らを覚えていますように

砂に落ちた思い出が息をしていた
遠く遠くから届いていたんだ
誰もいない未来の僕らの声が
美しくあれるように

何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に
僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね

笑わないでね

最後のサビでも、前述したようなことを念押しするわけである。

ところで、タイトルのナンバーナインとは何を指しているのだろうか。

英語で表記すれば、No.9であることはわかるが、一体どういう意味なのだろうか。

色んな仮説をたてることはできる。

例えば、この9は憲法9条を指し示す9であるという説。

憲法9条とは平和憲法と呼ばれており、戦争放棄を謳う例のやつである。

あるいは、この歌が「ルーヴルNo.9~漫画、9番目の芸術」の公式イメージソングだからであり、そこから取ったという考え。(ちなみに、これはルーヴル美術館が漫画を9番目の芸術として認めたからである)

あるいは、米津がボーカルのときに名乗っていたハチという言葉とリンクしているという考え。

過去の数字が8であり、未来のことについても考えるからこそ一歩踏み出したという意味で+1にして9という数字をタイトルに使ったという説である。

過去と未来の繋がりを願ったこの歌が、なぜ「9」という数字を必要としたのか。

はっきりとした答えはわからないが、この歌詞から「何を読み取るか」で、タイトルの意味は変容することであろう。

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