中田ヤスタカと米津玄師コラボ作「NANIMONO」の歌詞の意味は?解釈と考察!

中田ヤスタカ(feat.米津玄師)の「NANIMONO」が発売された。

中田ヤスタカとはPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのプロデュースとしても有名なお方で、今回は米津玄師をゲストボーカルに招いて、中田ヤスタカ名義として作品をリリースしたわけである。

この歌は佐藤健や有村架純らが出演している、朝井リョウ原作の映画「何者」の主題歌でもある。

というわけで、今作の歌詞の意味について考えてみたい。

*歌詞については他サイトから確認してくださいな。

映画の「何者」はまだ観ていなくて、小説「何者」は読了したような人間なので、偏った知識を絡めつつ歌詞を考えてみたい。

「踊り場」とはクラブとか社交ダンスの場ではもちろんなくて、階段の途中にあるやや広くなっているスペースのことである。

学校なんかだと10段くらい上ると広いスペースが一旦でてきて、180度回転してまた段が続くことが多いと思う。

で、その広いスペース部分には窓があることも多い。

というわけで、おそらく歌詞の冒頭に出てくる場所は学校の階段をイメージしているのではないかと思うわけだ。(まあ、作品は大学生の就活の話なのだが)

僕らはどこへ行こうか、というのはとりあえず階段を上っているけれど主人公には目的地がないことを示すとともに、その主人公は何をしたらいいのかわからなくて途方に暮れている様子がみえてくる。

「不確かな〜」のフレーズで出てくるのは、大した志望動機もなく、なんとなく就活をして、マニュアル通りの面接をしている普遍的な就活生のイメージであろう。

不確かな言葉とは、テキトーに見繕って面接用にカスタマイズした志望動機と自分の長所のことであろう。

「呼吸を揃えて初めまして」は脱個性になって黒髪にしてスーツに身を包むことを示しており、また集団面接ならば挨拶すら全員揃えて行わなければならないことをも表現しているのだろう。

「愛されたのなら大歓迎」とは面接で気に入られて内定をもらうということの比喩であろうし、その次のフレーズは、そんなことを途方もなく繰り返し続けなければならないのが就活の実情であるということを示しているのだろう。

しかも内定がひとつのゴールだが、本気の本命がないならばひとつの内定で終わりにはならない。

無意味に幾つも内定を取るよう動かなければならず、そういうゴールのない闇雲さが「遠く向こうへ」というフレーズに集約されるわけである。

会社にはいれば、その会社の名前が自分の肩書きになり、一応は「何者」かになる。

事務所と契約してレコード会社からCDをリリースしたらすれば、ミュージシャンという「者」になるわけだ。

そういう何者かになるためのステップをいま歩んでいるわけだが、自分がしたいこと、目指すべき場所がわからず、ふわふわしているのが「結局〜」のフレーズに表れている。

一応、就活というゲームにおいては、内定をとったものが勝ちであり、有名企業にいったものほど勝ち組に見られる傾向がある。

しかし、傾向があるだけで、それは正解ではない。

正解がないからこそ、アウトローな道に歩み、なんとかなるさとカッコつけて笑みを見せている奴も出てくるわけだ。

ただし、そういう奴ほど奥底では不安で押しつぶされそうだったりもするわけで。

結局のところ、就活は色んな感情や思いを渦巻かせることになるわけだが、あなたに会いたいという気持ちだけは確かな思いとしてあって(恋心だけは正直ということだろうか)、とりあえずはその気持ちだけを大切にして行動するのでもいいじゃないかというニュアンス。

最後のフレーズでは、面接では演技がうまい奴ほど就活では上手くいくわけだけど、大根役者ならば大根役者なりの方(要は面接や世渡りが下手くそならば、そいつなりのやり方で)やっていこうよというわけである。

台本通りに踊れないなら、踊れないなりのやり方でやればいいんだよとエールを送るわけである。

みっともなくていいから、前へ進むこと、目の前にある段を上り続けることだけは止めるなというわけである。

名前がつくというのは、自分が何者かになることであり、それは卒業したあとの進路が決まることも意味する。(要は内定をもらうということ)

別に大手企業に入らなくても、なんならサラリーマンにならなくても「生きる術」はたくさんあるわけだ。

誰よりもアウトローな人生を歩んできた米津だからこそ、誰よりもそれを力説することができるのだ。

人のことは気にせず(人の動きをみていた窓に背を向けるのはそのため)、ただ前へみて進め、さすれば光は見えてくるはずだとエールを送るわけである。

行動をしていれば、いつか君も何者かになってるはずだから、と。

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