宇多田ヒカル「道」の歌詞の意味は?解釈と考察!母親・藤圭子について歌われた三つ目の歌

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宇多田ヒカルが9月28日におよそ8年ぶりにリリニューアルバム「Fantome」をリリースする

その中に収録される「道」。

今回はその歌の歌詞の意味について考えてみる。

歌詞については載せたいところですけど、載せたら色々とややこしいので、別のサイトやお手元に歌詞カードをもちながら当記事を読んで頂けたら幸いです。

「花束を君に」「真夏の通り雨」の2曲が、宇多田ヒカルの自身の母親である藤圭子に向けて歌われた歌であることを確信した人にとっては(そして、宇多田ヒカルはインタビューで、その2曲が母に向けて歌った歌であることを告白している)、この歌も母親に向けて歌われた歌であると感じたのではなかろうか。

個人的な便りのような書き方で言葉を紡ぎ、死について向き合うからこそ残りの人生という生についてより思考を深くできているという印象を与える歌詞。

この歌詞に出てくる登場人物はふたり。

私とあなたである。

私=宇多田ヒカル、あなた=宇多田の母親である藤圭子として捉えれば、ほとんどのフレーズは辻褄が合うようになっている。

あなたはもうここにはいない人であること、けれど、私の心の中にいること、そしてこれから歩む道の先にあなたがいると述べていることからも、この歌のあなたの藤圭子説は強固なものとされる。

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調子にのってた時期もあります、とここで敬語になっているのはあなたに語りかけている言葉であり、あなたは私にとって目上の人物であることからも納得がいく。

そして、全盛期に宇多田ヒカルは文字通り本気で調子にのっていたからこそ、懺悔のような形で本心に近いフレーズを書くこととなっているわけだ。

なにより、始まりはあなただったという言葉、自分がアーティストとしてここまでのキャリアを積むことができたのは母親がいたからであることもここで告発するわけである。

つまり、先行シングルとして配信された2曲の延長線上、そして母への想いを込めた歌たちの締めくくりとしてこの「道」という歌は存在しているのだと思う。

だから、アルバムの頭に収録されたのだろう。

そして、宇多田ヒカルはこのアルバムを通じて、色んな人間関係についての歌を歌っている。

共通しているのは、すごくパーソナルな人間関係の歌であるということだ。

やがて、それはラストに収録される「桜流し」という歌で全て洗い流すという流れになっているわけだが、それはまた別の話だと思われるので、宇多田ヒカルの別記事も参照して頂きながら、色々とそれぞれが考えて頂けたら嬉しい限りである。

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