米津玄師の「死神」が圧倒的にヤバイ件

予測を越えていく米津玄師

シングルをリリースして一番話題になるのは表題曲であることが多い。

当然といえば、当然の話だ。

なぜなら、その作品において一番のメインの楽曲が表題曲だからだ。

ドラえもんにおけるドラえもん的存在。

ポケモンでいえば、ピカチュー的な存在だ。

表題曲はタイアップがついていることも多いし、気合いの入れ方が段違いということも多い。

米津玄師の「Pale Blue」だって、ご多分に漏れず、だと思う。

なんせ、「リコカツ」のドラマ主題歌。

ドラマの世界観と合わせるかのごとく、久しぶりに恋と向き合った歌でもあった。

冒頭から歌い出しのサビ。

ドラマの中でも楽曲の存在感がとても大きく、歌がかかるとドラマの空気ががらっと変わるような意欲作だった。

とにかくドラマチックで物悲しい。

感情を揺さぶるための芸を、あるためのありとあらゆる角度から注ぎ込んでいるような心地。

それ故、悲しさの中に宿る代えがたい美しさを提示するような一曲になっている。

そうなのだ。

「Pale Blue」ははっきり言って、凄く惹き込まれる楽曲だと思うのだ。

名曲である、という讃え方をしたとしても言い過ぎではない聴き応えがあると思うのだ。

つまり、「Pale Blue」という作品は明らかに表題曲が存在感を示している作品なのだ。

しかし。

「Pale Blue」という作品は、表題曲だけでは終わらない。

というよりも、人によっては「Pale Blue」ですら作品を味わうための前菜になってしまうような、凄まじさがあるのだ。

つまり、「Pale Blue」に収録されているカップリング曲が凄まじいということ。

特に「死神」は、米津玄師ならではの美学とユーモアが詰め込まれた一曲で、人気の高い楽曲である。

そんなわけで、この記事では、そんな「死神」の感想を書いていきたい。

古典落語から着想を得るユーモア

「死神」のMVを公開いたしました。監督は、初タッグとなる、永戸鉄也氏。
古典落語の演目である「死神」をモチーフに、米津玄師自身が、噺家、死神、観客、全ての役を演じています。噺家の演技指導は、柳亭左龍氏に手がけて頂きました。

引用:米津玄師 official site

この歌について書かれた文を少しでも読んだことがある人は、「死神」」という歌はタイトルを含めて古典落語からアイデアを持ってきていることを知っているはず。

MVにおいても落語を行う米津玄師が登場しているのは、この歌が古典落語から着想を得ていることを示している。

そして「死神」という古典落語を知っていれば、この歌が描く意味や言葉のチョイスにも全て納得がいく作りになっている。

ただ、「死神」という作品を語るうえで重要なのは、着想が古典落語から来ている、という事実ではない(もちろん、それも重要ではあるだろうが)。

自分が重要だと思うのは、そのアイデアをこういう膨らせ方をしていくのか、という聴き心地である。

なんせこの歌は、米津玄師節みたいなものが炸裂している。

なんというか、自分はシニカルなチャラさみたいなものを発揮しているときに米津玄師節を実感するのだが、「死神」にもそういうテイストを強く感じるのだ。

ニヒルな笑い声が似合う歌、とでもいいだろうか。

暗めのビート展開と、淡々とした米津玄師の歌い口。

独特のリズムアプローチとアンサンブル。

米津玄師だからこそのクリエイティビティがいかんなく発揮されている。

「死神」という楽曲の面白さ

死神という歌では、<アジャラカモクレン テケレッツのパー>という歌詞が出てくる。

これは死神の古典落語の披露の際にも出てくる、呪文の言葉である。

死神という古典落語がモチーフなのだから、このワードが出てくることは当然といえば当然なわけだ。

が、面白いと感じるのは、このフレーズの使い方であり、メロディーの載せ方であろう。

何度も同じフレーズをリフレインさせることで、この歌の中毒性を強めている。

Bメロの違和感を強くしているのも、この呪文フレーズが毎回差し込まれているからだし、その構成も圧巻という他ない。

そして、楽曲をトータルで聴いたとき、こんなことを思うのだ。

カップリング曲の米津玄師、やっぱりやべえなあ・・・と。

なんというか、表題曲における米津玄師は、良くも悪くも決められた枠の中で自分の個性を出していく、みたいな雰囲気がある(それでも十分に独創的な歌を生み出しているんだが)。

しかし、カップリング曲の際はそんなストッパーは吹き飛んでいってしまう。

徹底的にやりたいことをやりつくしていくような印象を受けるのだ。

メロディーもリズムも言葉遣いも音色も、全て全て、より自由になることで輝いていくのである。

シングル曲ではなかなか実現できない、より制約がなくなった中でのクリエイティビティが発揮されていくのだ。

=、米津玄師らしいユーモアが楽曲の中で色濃く投影されていく。

「死神」は、人によっては初期の米津玄師みを感じる人もいると思うんだけど、それは上記ような理屈があるからこそ。

変に綺麗にすることなく、自分の感性で音をはめ込んでいるような心地を感じるからこその手触りかもしれない、と思うわけだ。

まとめ

一言でまとめるとこの一言に尽きる。

「死神」、やべえぞ、と。

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