等身大 せつな系の日本語ギターロックがキテいる件

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最近話題になることが多いなーと思う音楽って、特定の傾向をもっていることが多いはず。その”特定の傾向”とは何なのか、はきっと聴く人によって異なる部分もあるのかなーと思うのだが、自分の中で頭に出てきたワードのひとつがこれだった。

“等身大 せつな系の日本語ギターロック”

というのも、自分は、テレビ朝日系「musicるTV」に出演することになったのだが、出演するにあたってどんな切り口で、どんな音楽を紹介するのが良いかなーと考えていたときに出てきたワードのひとつがこれだったのだ。

このワード、そもそもは最近、切ない気持ちにさせるようなバンドの歌がTikTokとかで流行ることが多いよなーというぼんやりとした認識から出たものではあった。

ただ、ワードとして頭に出てきてから自分の中でも考えることがいくつかあって。

そこで描かれる”切なさ”って何なのだろうかとか、そのお題を挙げたときに特定の曲が頭に浮かぶとして、なぜそもそも特定の人はその曲を”切ない”と感じるのだろうかとか、色々と考えをめぐらすようになったのだった。

なので、番組の中では、

・お題を出す

・いくつかの曲を挙げる

その理由の”なぜ”の部分を自分の感覚で言語化する

・・・というような形でアウトプットさせてもらったのだった。

とはいえ、番組には尺があるため、楽曲ごとにお話できる部分も限られているため、番組で紹介した内容をより面白く感じられるように、「テレビ朝日系「musicるTV」連動企画」として、番組で紹介したテーマを掘り下げるような記事を書いた次第。

それでは、どうぞ

等身大 せつな系の日本語ギターロック

マカロニえんぴつ 「なんでもないよ、」

きっとすでにこの歌は知っている方も多いと思うが、なぜこのテーマで番組として取り上げたのか、という話を書いてみたい。

自分的なポイントは四つで、それは、

・歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること
・時間経過と、その感情の変化が明確であること
・建前と本音が歌の中で交錯しているところ
・説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す

どういうことか。

順を追って説明しよう。

歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること

まず、この歌には”僕”という一人称と、”きみ”という二人称が出てくるが、この歌ってずっと歌の視点が僕の脳内になっている・・・そんな印象を受けるフレーズ構成になっている。

確かに歌詞を読み直すと、僕の感情表現と回想が錯綜するフレーズが散見できるし、この歌を聴くと、”僕”の感情表現がストレートに入ってくる。例えば、

僕には何もないな
参っちまうよもう
とっておきのセリフも
特別な容姿も

冒頭はこんな歌詞から始まるが、冒頭のこのフレーズだけで、なんとなく、僕という人物がどういう性格の人間であるのかがわかるように描かれている。

世の中の歌の多くは、歌の中で何を描いて何を描かないのかの取捨選択が繰り広げられるわけだが、「なんでもないよ、」はとにかく僕の思考をどんどん開示する。

そのため、主人公の人物像がどんどんクリアになり、「一人称」のペルソナがどんどん明確になるし、聴き手の感情と一人称の感情の距離がぐっと近くなって、共感値を上げていくように感じるのだ。

時間経過と、その感情の変化が明確であること

この歌って、僕と君の距離感がとても独特で、

<君の本気で怒った顔も呑気に眠る顔も きっとこの先いちばん映していく>

とか

<君の大きい笑い声をきっと誰よりもたくさんきけるのは僕のこの耳>

という描写があって、僕と君の距離の近さを丁寧に描く一方で、

いちいち<僕 でよかったかい? こんな 僕 でよかったのかい?>

とか

<僕には何もないな>

というフレーズを挿入することで、主人公の感情に揺らぎのようなものを作り、物理的な距離の近さと対比するかのように、違う距離感を感じていることを歌の中で描いている印象を受ける。

だからこそ、距離のことを直接言及する、

からだは関係ないほどの心の関係
言葉が邪魔になるほどの心の関係

というフレーズがより意味深に響くし、結局このフレーズは、からだの距離とか言葉の距離では心の関係性って示すことができない、ということを示すことにもなっていて、僕ときみはとても近い距離にいるはずなのに、単に「近さ」だけを感じさせない、微妙な距離感を感じる作りになっている気がする。

で、この歌に切なさを覚える印象を受けるのだ。

・過去
・今
・未来

という三つの軸を歌の中に敷いたときに、その微妙な距離感と変化が見えてくるのだが、「なんでもないよ、」って、僕がきみを想っているということはわかる一方で、過去→未来というベクトルに向かう中で、ずっとこの二人は同じ熱量のままで愛していくし、それが永遠と続くのか、という部分は不透明な印象を受ける気がして。

その感情の揺れとか不安感みたいなものに、自分はなんとなく切なさを覚えてしまうのである。

建前と本音が歌の中で交錯しているところ

歌のタイトルでは、その「なんでもないよ」に対して「、」をつけているのもポイントで、これって、なんでもないよと口では言っているけれど、本当の意味では「なんでもないよではないよ」というサインを出しているようにも感じられる。

フレーズの中にどんな感情が宿っているのか、は歌を聴く人の想像に委ねられるが、少なくとも、歌の中にはある種の建前と本音が忍ばせている印象を受けるし、そういう歌の構造が、この歌の切なさを際立たせているようにも思う。

説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す

この歌の中には「なんでもないよ」という言葉が何度か登場する。

ただ、この歌って「なんでもないよ」と言いながら、なんでもなさそうな感情の余韻を常に残している印象を受ける。

最後のランランラン〜というコーラスの余韻の残し方にも、複数の感情が入り混じっている心地を覚えるし。

また、さっきの項目とも繋がるが、結局のところ、この歌って「、」のあとにどんな感情を持っているのかについて具体的な言及はされておらず、本音と建前を匂わせながら、「ちゃんと余韻を残す」構造になっているのもポイントだなあと思う。

Saucy Dog「シンデレラボーイ」

Saucy Dog「シンデレラボーイ」も、等身大性を際立たせながら、切なさを描いた一曲であるように思う。

この歌も、

・歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること
・時間経過と、その感情の変化が明確であること
・建前と本音が歌の中で交錯しているところ

を感じる楽曲だと思う。

まず、歌のペルソナに関して。

この歌は、マカロニえんぴつの「なんでもないよ、」と明確に歌の視点が違っている。

マカロニえんぴつの「なんでもないよ、」は男性視点に感じられるように言葉を紡いでいる楽曲だったが、Saucy Dogの「シンデレラボーイ」は、

・一人称が「あたし」
・「男なら尚更ね」というフレーズがある
・語尾に「〜わ」とか「〜の」を使う

という構造になっている。

この歌の作詞は石原慎也という男性だが、上記のような手順を踏むことで、意図的に女性視点に感じられる歌詞として構成されている。

また、感情表現を入れつつも、部分的に風景の描写も丁寧に入れ込んでいるのが特徴で、性別と場面の設定を丁寧に行うことで、この歌の一人称のペルソナがくっきりしている印象を受ける。

この一人称で、色んな感情を語るからこそ、よりリアルかつ共感できるフレーズになっている印象。

「時間経過と、その感情の変化が明確であること」に関しても、しっかり表現している。

というのも、この歌はとにかくひとつひとつの描写が丁寧で、短編の恋愛映画を観ているかのように、5W1Hをきちんと描かれているのだ。

いつ・・・0時から8時までの時間
どこで・・・散らかった主人公の部屋
だれが・・・あたしと君
何を・・・会ったらダメってわかっているのに会ってしまって、また傷つく
なぜ・・・君が「シンデレラボーイ」だから
どのように・・・シンデレラのように0時をまわったら帰っちゃうから

また、「建前と本音が歌の中で交錯しているところ」も丁寧に描かれていて、この歌の一人称は、「大嫌い」という言葉を口にしながら、本音の部分では「それでも好き」という感情を抑えられず、感情の揺らぎを魅せる構図になっている。

この嫌いになるべき相手を好きでいてしまうという感情の動きが、この歌の共感値を高めており、切なく感じさせる要因になっている印象。

とはいえ、歌の中で全部を語ってしまうのではなく、歌の物語に余白を残したり、ふいに「シンデ(レラ)」にかけつつ「死んで」というフレーズを挿入してみたりと、歌を聴きながら色んな”裏”を想像できるように作られているのもポイントになっていて、「説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す」構造にもなっているわけだ。

ちなみにこの歌は、ドラマチックな歌詞の歌でありながらもストリングスなどは入れず、サウンドはシンプルなバンドサウンドで構成していること、感情の昂りに合わせてバンドアンサンブルが力強くなり、音の温度感と物語の起伏が接続しているのも、この歌の良さを形作っているように思う。

ヤングスキニー 「本当はね、」

この歌も女性視点に感じられるような言葉遣いで歌詞が構成されている楽曲だ。

ボーカルは男性なので、通常、男性が女性目線の歌を作ると、良くも悪くも創作性が際立つケースが多いが、ヤングスキニーの「本当はね、」は良い意味で、そういう部分を感じさせない印象。

というのも、この歌の主人公のペルソナがすごくはっきりしていて、感情移入できる人はとことん感情移入できる描写になっているからだ。

ポイントなのは、タイトルにもある「本当はね、」という部分。

タイトルにもあるように、”建前のフレーズ”と”本音のフレーズ”があることを予感させるような作りになっていて、この構造が、この歌の持つ切なさと直接リンクしているように感じる。

若い世代のバンドだからこその着眼点と眼差しで描かれた、今の時代の特定の人たちのリアルが詰め込まれた、切ない楽曲であるように思う。

前述したそれぞれの要素をまとめると、

・歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること
→あなな好みの可愛い女の子になれていない女性

・時間経過と、その感情の変化が明確であること
→嫌いと好きという感情の揺れ動き、嫌味っぽいことを言っているけれど好きだよ、という感情の変化

・建前と本音が歌の中で交錯しているところ
→か弱くないフリをしているけど、本当はか弱い女

・説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す
→最後のフレーズをみると、これもきっちり入れ込んでいる

ねぐせ。「日常革命」

番組内では”押し”かつ”推し”曲として紹介しているのが、ねぐせ。の「日常革命」。

ねぐせ。はすでに、いわゆる邦ロックが好きな人であれば、しっかり認知を獲得しているバンドではあるが、改めて番組を観ている皆様にご紹介したいなと思って、今回名前を出した次第。

「日常革命」の特徴は、とにかく描写が丁寧なこと。

タイトルに「日常」というワードが入っているだけあって、一人称と二人称がどんな性格の人で、どんな生活をしてきて、二人の中でどんな事件が起こって、どんな変化が起こって、今どんな感情でいるのかを時系列にそって丁寧に描いている印象。

「切なさ」を描くうえでポイントなのは、時間の経過と心の変化の示し方だと思うが、「ねぐせ。」の「日常革命」は<日常>と<革命>というワードをフックにすることで、時間の経過と心の変化を丁寧に提示している。

例えば、冒頭のフレーズでは、

起き抜けの朝 からになってた加湿器
朝から流れるオーディオの先の
ねぐせを君にバカにされた
押し付けた肌 君のバンドの歌詞付き
のデモCDを間抜けな顔で眺めていた

漫画やドラマのワンシーンのような絵が浮かび、不思議と二人の関係性も見え隠れする印象を受ける。

さらに、この歌はギターロックとしてのサウンドの展開も見事で、メロパートはたんたんと音を鳴らしていて、サウンドの起伏がなるべく過剰にならないようにコントロールされているが、あるタイミングで一気に感情を発露するかのようにサウンドの表情が変わる瞬間がある。

例えば、<でも愛がないと何もかも消えていく>の歌詞のあと。

ここで音を歪ませたギターが速弾きで音をかき鳴らし、ベースが動きを大胆になっていき、ドラムはクラッシュシンバルを積極的に鳴らしながら、荒々しいサウンドを展開していク。

そして、感情の発露をみせるようなサウンドの後、最後のサビでは、きっとリスナーが「こう思われていたい」と「こう思っていたい」を交錯するフレーズをエモーショナルに歌っていく。

あたためたい 抱きしめてほしい
欲を言うなら別れたくない
引き止めたい 嫌いだなんて言わないで
あなたの口から吐き出す言葉に
今は耐えられないのよ

ここでこの歌が持つ等身大性が爆発して、歌が持つ切なさがピークに達する印象を受ける。

そして、振り返ってみると、冒頭で述べた4つのポイント

・歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること
・時間経過と、その感情の変化が明確であること
・建前と本音が歌の中で交錯しているところ
・説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す

をこの歌もきちんと抑えていることがわかる。

まとめに替えて

・・・ということで、今回は「等身大、切な系の日本語ギターロック」というテーマでいくつか楽曲を紹介させていただきました。このテーマでポイントになるのは、4つの要素。

・・歌の中で出てくる視点のペルソナがしっかりしていること
・時間経過と、その感情の変化が明確であること
・建前と本音が歌の中で交錯しているところ
・説明しすぎず、ちゃんと余韻を残す

まあ、めっちゃ主観な見立てではあるのだが、こういう構造があるからこそ、この歌はたくさんの人に刺さるし、自分も「おっ!」って感じた・・・というのがこの記事のひとつの結論になっている。

ちなみに、今回は「テレビ朝日系「musicるTV」との連動企画でもあるので、ぜひぜひ番組とブログ記事の両方を確認してもらいながら、紹介した音楽を楽しんでもらえたら良いなあという、そういう温度感のそういう感じ。

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