ずっと真夜中でいいのに。とかヨルシカとか
ずっと真夜中でいいのに。ヨルシカなど、最近はボーカルが匿名性をまとうことで、逆にそれが象徴的なアイコンになっているユニットがいくつかいる。
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そして、そういうユニットの少なくない数が、若者から圧倒的な人気を勝ち取っている。
ずっと真夜中でいいのに。や、ヨルシカはその典型だと思っている。
まあ、今の時代「人気」を一つの尺度で語ることは難しいのだけれど、少なくともYoutubeの再生数だけでみれば、爆発的な求心力を持っていると言えるのではないだろうか。
彼女たちはなぜ、こんなにも支持されるのだろうか?
この記事では、そんな「なぜ」を掘り下げていきながら、支持されている理由を考えてみたい。
改変可能な匿名性
前述したアーティストの特徴は、顔やプレイヤー自身の「顔」を隠し、ある種、匿名的に活動しているところにある。
一方で、匿名でありながら逆にアイコン化している部分もあるという倒錯性も持っている。
というより、顔を隠すことそのものが、キャラクター性を担保しているとさえ言える。
本来、アーティストにおいて、顔は「歌詞」や「メロディー」と同じくらいに重要な要素で、奏でる音楽性の受け取り方すら変えてしまう強度を持っている。
この背景にあるのは、音楽を聴くという行為は、アーティストのキャラクター性や物語性にコミットしながら楽しみがちである、という事実。
音楽とファッション性は根強く繋がっているし、ビジュアル全体をみても「顔」が伝える情報量は特に大きい。
だからこそ、作品と顔は密接な繋がりを持つ重要な要素となるのだ。
そんな重要な「顔」という情報を隠したアーティストならば、普通に考えると余計な情報がカットされている分、音楽そのものに目を向けやすくなるのではないか?と思う。
が、結果として、顔隠すことによって、逆にキャラクター性を強めている。
少なくとも、前述したアーティストたちは、そうなっているように思う。
これはなぜだろうか?
理由はいくつかあると思う。
まず、これらのアーティストが作る作品性と、匿名性に必然的な「意味」があるように見えるからだ。
例えば、サンボマスターの作風と、サンボマスターの見た目には「繋がり」があり「意味」があるように見えるし、THE ORAL CIGARETTESのファッション性と音楽性には密接な関係があるように感じる。
それと同じように、ずとまよやヨルシカの匿名性は、作品と繋がりがあるように見えるのだ。
この辺の「繋がり」の真意については、もう少し置いてから説明していきたい。
また、もう一つの要素としてあるのは、現実の顔よりも、アニメ絵で書かれたアイコンの方が愛着が湧くという説。
生身の顔だと、そこには現実性しかなくて、場合によっては、そこにロマンが宿らない。
けれど、アニメ絵のアイコンしか「顔」へのイメージがないのであれば、アーティストの顔を自由に想像することができる。
すごく下品な例えで申し訳ないけれど、顔そのものを出してしまうと、その顔がタイプであるとかタイプではないとかいう、そういう話になってしまいがちだ。
けれど、アニメ絵だと、この声の人はきっとこんな顔に違いないという想像を働かせることができるし、ある種「自分のタイプ」に寄せることができる。
そういう思考をする余地が生まれるので、逆に顔を隠す方が愛着を持ちやすくなるのではないか?というわけだ。
もちろん、ベースにあるのは、彼女たちの作品がアーティストのパーソナルな物語を強くさせるものではなく、小説的、あるいはアニメ作品的な物語に近い歌詞であることが大きいし、匿名性である意味がある生まれやすい構造だからこそ、匿名であることそのものがアイデンティティになるわけだ。
それ故、匿名性がキャラクター性に置き換わっていくのだろうと思う。
緩やかなる音楽性
ずっと真夜中でいいのに。と、ヨルシカでは別に音楽性的な繋がりはない。
厳密に言えば、似ている部分はあるし、大きな枠組みで言えば「同じ」部分もあるもしれないが、基本的には、それぞれが自分たちのクリエイティブを発揮しているように感じる。
ずっと真夜中でいいのに。はリリースする作品ごとに、またその作品に収録されている曲ごとに色の違いがあって、音楽性は幅広い。
トラップっぽいビートを使うこともあるし、サウンドディレクションはとにかく多彩である。
ヨルシカは音楽としてのフォーマットは邦ロック的であるが、必ずしもその枠には収まらない奥深さがある(まあ、ヨルシカの場合は、歌詞のセンチメンタル性が一番重要なのだとは思うが)。
音楽的に、あるいは歌詞に対して自由であれるのは、匿名性を宿しているからだし、ビジュアルに引っ張れる存在ではないからこそ、作品に対して気ままなアプローチができるのかなーとは思うし、それが支持される一つの理由であるように思う。
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どんなアレンジにも乗りこなす凄さ
歌の上手さって色んな尺度で語ることができるけれど、彼女たちの凄さは、どんなアレンジにもきちんと乗りこなすことだと思う。
たぶん彼女たちは、声量とか歌の迫力みたいな「ロックバンドのライブでウケそうな歌唱力」は持ち合わせていないと思う。
けれども逆に、一般的なロックバンドでは持ち合わせていないようなボーカリングは、持ち合わせているように思う。
それを言葉にするならば、歌詞の表現力とどんなサウンドにも乗りこなすセンスだと思う。
ちょっと前だと、水曜日のカンパネラのコムアイなんかがその能力に長けていた。
どんな音に対しても自分の存在感を示しつつ、軽やかに自分の音にしてみせる。
そういう意味では、初音ミクに近いものもあるのかもしれないなーなんて思うし、だからこそ、彼女たちの歌を「ボカロ」的と評することもあるのかなーなんて思う。
暴論を承知で言うならば、肉体性を持ち、声に感情を宿したボーカロイド的であるとさえ言えるのかもしれない。
まあ、ボーカルとしての素養が「そういうもの」だからこそ、匿名的なキャラクター性が強い力を発揮するということであり、匿名性を中心に据えた様々な要素が有機的に結びついているからこそ、彼女たちは圧倒的に支持されるんだろうなーという話である。(たぶん)
Youtubeで作品を発表している
あくまでも個人的な見立てであるが、ずとまよも、ヨルシカも、ティーンに支持されがちな音楽だと考えている。(あくまでもコメントやSNSの反応をみて考えた個人的な意見である)
で、ティーンに支持されている音楽ほど、Youtubeでの再生数の伸びが早いように思うのだ。
上記2組のアーティストは言わずもがな、ミセスや
ヤバTのように、10代にも熱狂的に支持されているバンドは、Youtubeでの再生数が伸びが早いように感じるのだ。
10代がどういうふうに音楽を聴いているのか、はっきりしたことはわからないが、若い世代になればなるほど、Youtubeありきの音楽ライフだからなのではないか?と僕は考えている。
だからこそ、Youtubeありきのプロモーションを展開するずとまよやヨルシカが圧倒的に支持されるのは、必然であるのかなーなんて思う。
また、Youtubeとしてのプラットフォームの効力を最大限にするため、アニメ絵のMVを多用するのもポイントだと考えている。
これにより、Youtube上で「伸びやすい歌」になり、よりたくさんの人の目に触れる音楽になったのかなーと考える。
で、評判が評判を集める構造になり、より根強いバズを生み出したのかなーなんて、そんなことを思ったりする。
まとめ
というわけで、「なぜ」の部分に対して、いくつかの要素を抜き出してみた。
なんか書き散らした物言いになってしまったが、結論として言えるのは、色々売れる要素があったから売れたという身も蓋もない話なのかもしれない。
ただ、これまた暴論を承知で言うならば、若者における彼女たちの音楽の「刺さり方」は、アラサーたちの多くにおける、BUMP OF CHICKENの歌詞が刺さった構造と似ているのかなーとは思う。
物語的な歌詞、自由に解釈可能な世界、音楽的な衝動とか、似ている部分はある気がする。
そもそも、現代邦ロックも、ボカロシーンもルーツを辿ると、絶対にBUMP的な世界観は通ることになるのだ。
そう思うと、BUMPの影響力って本当にすごいよなーと思う。
何の話かわからなくなったが、三月のパンタシア、Eve、美波など、似てないのに似ている要素のルーツを探ると、もしかしたらBUMPに行き着くのかもしれない!
という感じで、この記事をしめたいと思います。
ではではでは。
関連記事:BUMP OF CHICKENから考える「Eve」という歌手の魅力
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