SixTONESのアルバム『声』に対する深読妄想記
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以前、『声』に収録されている「人人人」という楽曲の感想を書いた。
該当記事:SixTONESの「人人人」で感じた、あれ?について
該当記事にはそのうちアルバムの感想も書くと、かいた。
あれからアルバムを何周かフルで聴いた。
なので、せっかくなので、アルバム全体の感想を書いてみたい。
SixTONESの『声』の話
『声』は3形態でリリースされているアルバムで、13曲目までが共通の内容となっている。
そのため、自分的には「Overture -VOICE」から「Always」までが『声』というアルバムの本編であると考えている。
そして、以降の楽曲はBONUS TRACK的なものであると解釈して、アルバムを楽しんでいる。
なので、この記事は13曲目までを踏まえて書こうかと思っている。
で、肝心の『声」の感想なのであるが、こんなことを言うと、怒られるかもしれないが、アルバムを最初に聴いたときの衝撃は正直『1ST』の方が大きかった。
それは自分の期待値が今と異なっているから、というものもあるのかもしれない。
が、それでも『声』最初にフルで聴いたときの衝撃は、『1ST』をはじめて聴いたとき以上のものではなかったように感じたのだ。
最初の視聴では、過去のアルバムにはない「すごいものに出会った感」が自分には感じられなかったのだ。
というのも、『1ST』って、ひとつのアルバムの中で様々なジャンルに挑戦しており、しかもどのジャンルにおいても見事にSixTONESのカラーに染め上げている作品だ。
そう考えたとき、『声』はそういう逸脱感を覚える瞬間が少ないように感じたのである。
あえて言えば、『1ST』は、世界に対して自分たちの凄さを提示するような迫力の作品だった気がしたんだけど、『声』は少しコンパクトにまとまっている印象を受けたのだ。
偉そうな話であるが、そんなことを思ったのである。
でも、アルバムを聴いていく中で、少しずつ作品の捉え方が変わっていくことになる。
というか、自分がSixTONESの音楽をあまりにも一面的、一方向的に捉えすぎていたことを実感することになるのである。
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SixTONESの『声」で感じたこと
このアルバムは、「Overture -VOICE-」という楽曲から始まる。
この楽曲の冒頭はメンバーの歌声だけで楽曲世界を作っている。
そのため、『声』というタイトルにふさわしい幕開けを飾ることになる。
そして、1分弱の尺である「Overture -VOICE-」が終わると、ここから「Boom-Pow-Wow!」、「Good Luck!」、「Outrageous」と、アッパーでライブでも盛り上がりそうなナンバーが続くことになる。
で。
このときに気づいたことがある。
当初、自分はアルバムのタイトルである『声』とは、SixTONESのメンバーの歌声を指したタイトルなのかと思っていたのだ。
安定感があって、緩急も豊かなジェシーの歌声。
美しくも、ソリッド感もあるハイトーンが魅力の京本大我の歌声。
甘くて艶やかで品がある松村北斗の歌声。
ハイもローも鮮やかに歌いこなす、無二性のあるバランス感を持った髙地優吾の歌声。
柔らかくも力強さも兼ね備えた、煌めき感のある森本 慎太郎の歌声。
屈指のソリッド感で、ヒップホップ的なリズムの乗りこなしもピカイチの田中樹の歌声。
そんな6人の色とりどりの歌声が堪能できるアルバム、という意味合いを込めて『声』というアルバムが構成されたのではないか。
そんなことを思っていたのだ。
でも、タイトルが示す”声”って必ずしもSixTONESを指したものなのではないことに気づく。
というよりも、「そこ」だけではなかった、という言い方の方がいいかもしれない。
というのも、この”声”って、この楽曲を聴いている人たちを指している言葉でもあることを実感したわけだ。
もし何も制限がなかったあの頃のコンサートで、「Boom-Pow-Wow!」や「Good Luck!」がコンサート会場で披露されたとき、そこではきっと大きな歓声があがったと思われる。
そう、ほとんどのアーティストのライブにおいて、奪われることになってしまった音楽の場における観客の”歓声”。
このアルバムの冒頭では、それらを取り戻すかのように、アッパーなナンバーが集っている、そんな印象を受けたのだ。
SixTONESのライブにおける起点は、当然ながらメンバーの6人であろう。
でも、それでライブが完成するのではない。
会場に集うファンの歓声が混じり合うことで、はじめてその空間は満ち足りたものになる。
SixTONESがいて、それに呼応する一人一人のリスナーがいて、はじめて成立する。
だから、「Overture -VOICE-」ではじまり、そのあとに歓声が沸き立つアッパーな楽曲が続いている。
『声』のアルバムのそんな冒頭の流れで、そんなメッセージを自分は感じたのである。
しかも、その後に続くのが<わたし>と<あなた>の”愛”を歌った「ふたり」であるのが印象的である。
SixTONESという”わたし”がいて、音楽に呼応する”あなた”がいる。
そんな関係性を改めて言葉にしなおしたような、そんな印象を勝手ながらに覚えてしまったのである。
だからこそ、冒頭は6人だけの声の歌ではじまり、そこからリスナーの”歓声”が際立つアッパーな楽曲が続き、そのあとに「ふたり」が控えているのではないか。
そんなことを思ってしまうのである。
さらに、「ふたり」によって関係性を整理しなおした後の歌が、<ふたり>であった関係性から<僕ら>に変化していく「共鳴」であることも象徴的だと思ってしまったし、そのあとに控えるのが、「人人人」というのが、さらに象徴的である。
まるで音楽を通じた、SixTONESとファンの関係性の変化を丁寧に描いてみせるかのように、秀逸な流れで楽曲が並べられているわけだ。
・・・・というのはさすがに跳躍した発想かもしれない。
ただ、思うのだ。
このアルバムは世界に向けてとかそういう大きなスケールというよりも、そもそもの根本である一人一人のリスナーに向けた作品だったのだろうな、と。
だからこそ、今回は単に幅広いジャンルで魅せるとか、今までになかった衝撃性で勝負するとか、そういう視点とは根本的に違った作品だったのかなと思うし、『声』というアルバムは即効的に感動するというよりも、作品をを聴いていくなかで、じわじわと感動が広がっていく作品のように感じている自分がいた。
このアルバムの本編のラストは、一人一人のリスナーの”生活”に光が差し込むような、優しくてハートフルに響く「Always」である。
これもまた、歌声もメッセージもメロディーも、一人一人のリスナーへの”寄り添い”が際立った心地よい楽曲だなあと思うのである。
まとめに替えて
今までの積み重ねがあるからこそ、『声』というアルバムの素晴らしさが際立っていた、そんな風に思うのである。
SixTONESの音楽って一面的ではない、多面的な輝きを放っているからこそ、作品ごとに違った刺さり方をするし、『声』もまたそういう作品だったなーとしみじみと実感している次第である。
きっともう少し時間が経ったら、また違った感銘を受けて感想も変わると思うけど、とりあえず、今感じたことを言葉にして、この記事を締めくくろうと思う。
関連記事:SixTONESの『CITY』の簡易なる妄想的レビュー
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