バンドの歌詞を誰が書いているか、意識したことがあるだろうか。

一般的には、どのバンドもボーカルが作詞を担うケースが多い。やっぱりバンドの顔はボーカルであり、ボーカルが中心になって結成したバンドが多く、ボーカルの世界観がバンドの世界観になっているケースが多いから。

でも、色んなバンドを知っていくと、実は
「ボーカル以外のメンバーが歌詞を書いている」バンドも一定数存在していることに気づく。ベースが、ギターが、歌詞を書き、ボーカルがそれを歌う。でも、面白いことに、そういうバンドだとしても、いや、そういうバンドほど、なぜか「歌っている本人が書いた言葉を歌っているようにしか聞こえない」という現象が起きる。

他人が書いた歌詞のはずなのに、ボーカルの口から発せられた瞬間に、それはどこからどう聴いても「その人の言葉」になっているのだ。なぜ、こんな現象が起こるのか?この記事では、その事象についての考察を進めてみたい。

で。

自分なりに考えてみた結果、3つの理由にたどり着くことになった

ボーカルの「声」を知り尽くした言葉選び

まず1つ目は、作詞者がボーカルの声や特性を完全に理解しているから、というもの。

本人よりも、実は周りの人間の方がそのボーカルの魅力を理解しているというケースは多い。どの音域でどんな響きになるか。どの母音が伸びたときに気持ちいいか。ブレスの間がどこに入ると曲が活きるか。その他、色んな技術的な知見を感覚的にか、論理的にかの違いはあれど、理解しているケースが多い。

長年同じバンドで活動してきた人間だからこそ、そのボーカルの声の「取扱説明書」を誰よりも熟知しているわけだ。故に、そういうメンバーが作詞をした際の「選ぶ言葉の最適化」
具合がえげつないことになっている。

もう少し言えば、単に「歌いやすい言葉」を選んでいるわけではなかったりする。なんなら、メロディーも含めて、意図的にハードモードな楽曲をボーカルに渡す「参謀」も多い。

が、そこまで含めて、作詞者はそのボーカルがどうあれば魅力的なのかを計算して言葉にしているケースが多い気がする。この声でこの言葉が響いたら、どう感じるか。ファンがこのボーカルに歌ってほしい言葉は何か。そこまで見据えた上での言葉選びがなされている。

たとえば、UNISON SQUARE GARDENの田淵智也が書く歌詞なんかは、斎藤宏介が歌うことで「意味が広がる」キーワードを巧みにちりばめている印象を受ける。

あえて俗っぽい言葉に置き換えて説明するなら、「デレ」と「ツン」とそのどちらでもないキーワードの配列が巧みすぎるというか。独特の温度感を持った言葉たちが、斎藤のボーカルを通じて、字面では収まらない意味性を帯びていく。そして、その意味性をある程度意図的にコントロールして、田淵は歌詞を手がけている印象を受けるのだ。

ボーカル像の代弁

2つ目は、作詞者がファンとボーカルの間に共有されている「ボーカル像」を正確に捉えて、それを歌詞に落とし込んでいるということ。

ファンは日々、ライブのMC、インタビュー、SNSでの発言、楽曲を通じて、そのボーカルの人となりを感じ取っている。「この人ってこういうことを考えている人だよな」「こういう言葉を使いそうだよな」というイメージが、ファンの中に蓄積されている。

作詞者は、このファンが共有している「ボーカル像」の解像度がとてつもなく高い。だから書かれた歌詞を聴いたとき、ファンは「そうそう、この人はこういうこと言う人だよね」と自然に受け取ることができる。違和感がない。むしろ、ボーカル本人が書くよりも「その人らしい」言葉が出てくることすらある。いや、実際そう考えているのかは知らないが、ファンの1人として、作品を聴いていると、そんなことを考えているんじゃないかと思わずにはいられないくらいに、一本の筋が通っているケースに出会うことがある。

SUPER BEAVERは、まさにそういう一本筋を感じる佇まいだなあと感じる。

柳沢亮太が書く歌詞は、あまりにも渋谷龍太すぎる歌詞として炸裂している印象を受けるからだ。渋谷龍太のMCを聴いたことがある人なら分かると思うが、彼のまっすぐさ、飾らない誠実さは、ステージ上でもステージ外でも一貫している。そして柳沢の歌詞が描く世界観は、その渋谷のまっすぐさとあまりにもシンクロしているように感じる。だからこそ、初めてSUPER BEAVERを聴いた人は「これ、ボーカルが書いてるんでしょ?」と思うことが多い。その一致があるからこそ、渋谷が歌うときに生まれる躍動感は凄まじい。嘘のない言葉を、嘘のない人間が歌う感があるというか。

作詞者の構築力×ボーカルの表現力——掛け算が生む奥行き

3つ目は、作詞者の持つ「構築力」とボーカルの「表現力」が掛け合わさることで、どちらか単体では到達できない奥行きが生まれるということ。

ボーカル自身が作詞する場合、そこには「自分の感性の範囲」がまとわるように思う。でも他者が書く場合、その制約がない。無限になる。そこに、掛け算が生まれる。作詞者は自分の語彙力や世界観を最大限に発揮して歌詞を構築できる。そしてボーカルは、その歌詞を自分の表現力でものにするという挑戦が生まれる。この緊張感のある関係が、楽曲にとんでもない奥行きをもたらすわけだ。

ポルノグラフィティの新藤晴一(Gt)が書く歌詞は、まさにこの掛け算の結晶だなーと思う。晴一の歌詞には文学的な構築力がある。難解な言葉の散りばめ、物語に独自のストーリーテリングを育む。テキストとして読んでも唸らされるような面白さがある。それを岡野昭仁が歌ったとき、化学反応が起きる。テキストだけとは違う物語や表情が歌の中で生まれるのだ。晴一が緻密に組み上げた物語に、昭仁の圧倒的な声量と情感が肉体を与える・・・とでも言えばいいだろうか。ワインがウィスキーに変わるくらいの、大胆な変化を与える。逆に言うと、歌詞だけだと難解だった世界観が、昭仁のボーカルを通すと感覚的に「わかる」ものになる感触もある。いずれにしても、歌の中で秀逸な掛け算が生まれるからこそ、圧倒的な音世界を作り上げる。そして、その歴史の果てに、このボーカルってこういう作家性を持っているよなーというイメージが出来上がり、結果としては歌詞そのものがボーカルの解像度を上げる要素になっていくような気がするのだ。

・・・なーんて感じで、それっぽい言葉で本題の考察を進めたが、いかがだっただろうか?
ここからは上で挙げた例も含め、「ボーカル以外が歌詞を書いていて、このボーカルが歌うからこそ最強」だと感じる、ただただ自分が好きなバンドを5組紹介したい。

UNISON SQUARE GARDEN

圧倒的職人たちが集ったスキのない強烈スリーピースバンド。田淵の作家性と斎藤の職人的表現力の融合は、このバンドの大きな魅力になっている。

フレデリック

三原康司が書く歌詞は、言葉遊びと独創的なワードセンスに満ちている。普通のポップスなら浮いてしまいそうな言葉の選び方が、三原健司のボーカルを通すと「フレデリックらしさ」として完全に成立してしまう。

Omoinotake

藤井レオのボーカルは、感情の揺らぎや機微を声で丁寧に表現している印象を受ける。そして、福島智朗の描く歌詞は物語の奥行きを拡張するような、絶妙なセンテンスが光る楽曲が多い。繊細と繊細の掛け合わせにより、どんな楽曲にも深いドラマを生み出す印象を受ける。

ポルノグラフィティ

先ほども説明をしたが、新藤晴一の歌詞は、読むだけでも一つの文学作品のようだ。難解なワードの散りばめ方、ストーリーテラーとしての構成力。それだけでも十分すごいのだが、岡野昭仁が歌った瞬間に次元が変わるのだ。自分の音楽体験の原点でもあるので、そのインパクトはより鮮烈なるものである。

SUPER BEAVER

こんなにちゃんと分業をしているのに、その分業が統一していて、一貫しているバンドもそうはいないなーと思う。しかも、長いキャリアの中でも、そのブレがほとんどないのも特徴だよなーと思う。