ファッションと音楽に通ずる”量産型”の話
[ad]
ファッションが好きな人、っていると思う。
ファッションが好きな人=自分が何を着るのか楽しんでいる人だと思う。
その一方で、おしゃれな人、と形容される人っていると思う。
おしゃれな人=その人からみて服のセンスが良い人だと思う。
じゃあ、ファッションが好きな人=おしゃれな人かというと、別にそういうことはないと思う。
もちろん、=になる確率は上がると思うが、周りからみておしゃれとよく言われる人がファッション自体がとても好きかというと、そうじゃないケースだってそれなりにあると思うし、ファッションが好きで服にこだわりを持っている人でも、奇抜とか組み合わせが微妙なんとか言われて「おしゃれ」と形容されない人、というのも確かに存在すると思うのだ。
これってどういうことなのだろうか?
考えてみると、ファッションを好きな人、というのは軸が自分にある。
でも、おしゃれな人というのは軸が自分ではなく、その人の周りに依存しているように思うのだ。
絶対的な価値観と、相対的な価値観、とでも言えばいいだろうか。
なので、自分はファッションが好きでも、周りはそれを「おしゃれ」と評価しないケースもあるし、別に自分はファッションが好きではなくても、他人が「おしゃれ」と思う服装はどういう組み合わせか?と考えておしゃれに思われる着こなし方をする人もいると思うのだ。
そう。
同じファッションと括っても、軸が自分の価値観にある人もいれば、軸が他人の価値観にしている人もいる。
[ad]
ファッションと音楽が通ずるもの
音楽もわりとそういう部分ってあるように思う。
作りたい音楽、自分が良いと思う音楽をただひたすらに作る人もいれば、こういう音楽であればバズりそう・・・みたいな観点で音楽を作る人もいる。
実際、プロとして飯を食う場合は、ある程度は他人の目を気にしながら音楽を作ることにはなると思う。
ここのバランスは人によって千差万別だ。
やりたい音楽を貫き通しながらもその中でどうしたら売れるのかをもがくアーティストもいれば、完全にまったく好みの音楽ではないけど、こういう路線の方がTiktokでバズるから・・・みたいなテンションで音楽を作るアーティストもいるように思うからだ。
どうみてもこれまでの人生、純愛とかほの苦い失恋とかとは無縁だった人がゴリゴリにそういう類の歌ばかりを歌うのもまた、自分の軸よりも他人を強めで音楽を作った結果なのかもなーと思うこともある。
別にそれが良いとか悪いとかではない。
ただファッションとかと同じで、自分の軸強めの人もいれば、他人の軸強めの人もいるんだろなーという話である。
そして、自分の軸を強めることがイコールそのまま、他人の評価を勝ち取ることができる価値観の人もいれば、自分が求めていることと他人が求めていることが大きく乖離する人も存在している。
どうしても乖離が大きいほど、チューニングのしなおしが必要な分、大変なこともあるのかなーとは思うのだ。
ただ、ファッションであれ音楽であれ、自分の好きを貫き続けると、他人の評価を転覆させる、というケースもあるように思うのだ。
好みかどうかで訊ねられたら好みではないと答えるけれど、この人のそれはもう純粋に認めるしかないし見惚れてしまう・・・・そんな境地の人もいるように思うからだ。
なので、他人の軸に合わせる方が”近道”なことは確かだと思うが、必ずしもそれが”正解”とは思えないよなーということもある。
特にファッションであれ音楽であれ、他人を軸にしたものばかりが氾濫すると、いつまのかにそれが量産型になってしまい、目新しさを感じず、逆にダサくなっていったり、興味を惹くものにならくなる、というケースも大いにあるからだ。
そして、最初はブームではなかった自分だけの拘りが、時間の経過によってブームのど真ん中になるケースだって往々にしてあるからだ。
なので、意外と風向きが変わるまで自分の好きを貫くのも、ひとつの正解なのかなーと思うこともあるのである。
まとめに替えて
結論、ここで答えを出せるものではないんだけど。
ただまあ、仮に音楽を作ることを志すとして、是が非でもtiktokのようなSNSを意識しないといけないかというと、別にそんなことはないんじゃないかなーなんてことを、ふとした瞬間に思った、そんな次第だったのである。
それだけの話。
[ad]