SNSの趣味垢をするのがしんどいなーと思ったときに考えること

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いや、全員のことは、わかんないけどさ。

でも、多くの人がSNSをはじめた最初に理由って、きっと、自分が好きなものを、同じように好きでいる人と、その<好き>を共有するためにあると思うのだ。

特に音楽関係のアカウントを作っている人はそういう人が多いと思う。

・・・・・・なんだけど、近年のインターネットをみていると、とにかく<ノイズ>が多い。

ここでいうノイズとは<好き>なものを<好き>でいることを阻害してしまう類のノイズ。

自分が好きなものを、同じように好きでいる人と、その<好き>を共有するためにそのアカウントを作ったのに、たくさんの情報に触れてしまうと、なぜかザワザワする気分になること、きっと少なくないと思うのだ。

特にTwitterの場合、良くも悪くも色んな人の考えを、誰の目には触れることができる形でばら撒けるからこそ、どうしても嫌なものが目につく、ということもあるはず。

まあ、アーティストによっては、もちろん元々<治安が悪い>ということもあるだろう。

そのことを、ある種のエンターテイメントとして眺めている、みたいな界隈もあることは確かだろう。

でも。

とにかく素敵な空間を構築していた柔らかいグループに対しても、嫌なボールを投げてくる事案も最近はみることが出てきた。

好きなことを好きでいただけなのに、思わぬトピックに巻き込まれる、ということもきっとあったと思うのだ。

そう。

<好きでいること>に水を差すようなことをする人もやっぱりいるんだよな・・・・と思ってしまう昨今なのである。

もちろん、自分のようなブログ記事がそういうことを担う恐れはあるし、そういうつもりじゃなかったんだ・・・・とあとから言ってみたところで、一度そういう<嫌なボール>を渡してしまったのだとしたら、その責任はやっぱり大きい。

何かを述べるということは、そういうことと紙一重なのかもしれないということはある。

あるいは、目を背けてはいけないトピックが転がっているのも確かだ。

とはいえ、仕事でもない趣味垢でそこまでの責任を常に担う、というのも厄介な話すぎる。

そんな中で、改めて思うのは、だからこそ<好き>を貫くこと、これがとても大事なんじゃないか、ということ。

というよりも、<ノイズ>に対して、そんなにもセンセーショナルになる必要、実は別にそんなにないんじゃないかと思うこともあるわけだ。

SNSの海の広大さ、というのは確かに魅力的である。

知らないことに触れたり、思わぬの出会いがある場である。

正しく使えば、その世界はどこまでも素敵に広がっていく。

しかし、昨今のニュースに触れてもわかるとおり、全てのトピックに対して自分と同じ考えの人というのはきっといないはずだ。

それは、自分が好きなもの、大事にしているものに対してだっておんなじことである。

輪が大きくなってしまうと、時として嫌なボールが投げられる、ということもゼロではなくなる。

で。

それを、全て同じ温度感で受け止めてしまうのだとしたら、それはきっとしんどいことになる。

ならば。

SNSをはじめた最初に理由が、自分が好きなものを、同じように好きでいる人と、その<好き>を共有するためのもの、なのだとしたら。

自分が好きなものはそのままに好きで貫くことが素敵なことを一番大切なこととして置き、その<好き>に対して自分にとって不本意な形でヒビを入れるような存在が目につくのだとしたら、そういうものから距離を置くこともすごく大事なんじゃないか、と思うわけである。

少なくとも、好きなことを好きでいることよりも、全てのものを等しく受け止めることを、優先しなくてもいい時って、わりと多いように思うから。

世界を知りすぎるからこそ不幸になってしまっているのだとしたら、あえてその世界をしぼめてみてみる、というのは時として大事なことだと思うわけだ。

狭めることが、逆に豊かになることだって、おうおうにしてあると思うから。

まとめ

何のニュースを受けての話、というわけではない。

なんとなく明るくないニュースがあふれがちな昨今だからこそ、情報に接するうえでのコントロールって大事だよなーと。

ふとそんなことを思ったという、ただそれだけの話である。

自分の生活を色んな意味で豊かにすること、個人レベルでいえば、それが何よりも大切なことだと思うから。

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