
米津玄師×宇多田ヒカル「JANE DOE」の話。歌詞、ボーカル、歌割りに触れて
米津玄師と宇多田ヒカルがコラボした。
このコラボの経緯やコラボを踏まえたお互いへの言及については、他の音楽メディアでしっかり行われているから細かい部分は割愛するけれど、マジで、このコラボ良すぎるなーと。
米津玄師と宇多田ヒカル。
お互いのデビュー当時の立ち位置だけを考えると、こことここが混じり合うとは・・・という感じではあるけれど、近年のアウトプットの質や作品の作り込み方などを考えると、これほどに納得できるタッグもないよなーという感触。
二組とも、大衆的な知名度を獲得しているアーティストでありながら、丁寧に内面にもスポットを当てるような、様々な創造力を喚起させるアウトプットを生み出していて、異常なまでに繊細なクリエイティブを感じさせてくれる。
大衆的なアーティストでありながら、安易なポップではなくて。
独自性を常に獲得していて、深い洞察と瑞々しい感受性でもって楽曲を紡いでいる印象。
端的に言うと、とんでもないアーティストが、とんでもないコラボを行ったという話。
大仰な話はこの辺にしておいて、この記事ではそんな「JANE DOE」の感想を書いてみたいと思う。
本編
曲構成軸の話
構成面では、ピアノの旋律を基調にした、しっとりとした音楽。
でありながらにして、リズムに対してもシビアで、静かに跳ねるような展開が繰り返されている点が特徴的。
イントロからループした旋律が紡がれており、徐々にサウンド全体がビルドアップしていく印象。
ミニマムなサウンドながらどこか幻想的であり、独特の緊張感を生み出すあたりに、米津玄師らしいクリエイティブを感じさせる。
そして、しっとりとしながらも不思議な浮遊感も内包していて、聴き込めば聴き込むほどフレーズ単位で色んなサウンドを詰め込みながら、タイトかつ繊細なカタルシスを生み出す構成になっているのだ。
外はかりっとしているけど、中はもちっとしているパンのような。
上辺の聴き心地では想像できないほどの細かさがサウンドにあるのだ。
ポップとも、実験的とも、言えない、絶妙なバランスの中で音を組み込み、静かな展開の中で大胆に楽曲を展開させていく面白さがある。
歌詞軸の話
タイアップ元も踏まえながら歌詞を書いただろうから、ある種の喪失がこの歌の軸になっているのだろうし、現代特有の孤独な様子も歌の中に投影されている。
だからこそ、
まるでこの世界で二人だけみたいだね
というフレーズが印象深く光る。
直接的な言及は避けたようなフレーズの中で、色んな感情と絵を想像できる歌の世界が構築される。
音に深みがあるからこそ、より歌詞の奥深さも際立っているし、こういう点でも米津玄師らしいアウトプットが光っていると言えるだろう。
ボーカル軸の話
そして、何と言っても宇多田ヒカルと米津玄師のハーモニーがこの歌の肝だろう。
宇多田ヒカルからボーカルが始まり、1番は宇多田ヒカルがメロディーを紡ぐ。
その後、2番から米津玄師がメロディーを紡ぐわけだけど、光と陰だったり、静と動だったり、二人のボーカルが独特のコントラストを作り上げる。
米津玄師のボーカルと対比的に宇多田ヒカルが存在感を放つからこそ、この歌の「二人感」や「故に見える孤独感」が際立つ構成になっている。
柔らかい歌声なのに、どこか硬派で。
優しく紡ぐのに、何よりも力強くて。
抑制の効いたうたで、低音ながらも独特の温かみを感じる装いで。
低音で紡ぐ米津玄師のボーカルと、はりつめたハイトーンで展開する宇多田ヒカルのコントラストが良いし、二人のボーカルそのものが、微妙なすれ違いの中で「交わる」構成になっているところも良い。
この歌の世界観に、このボーカルのあり方があまりにも正解すぎるのだ。
まとめに替えて
2025年の代表曲になるような楽曲が、またひとつ誕生した。
そんな心地で、今日もまた、この歌をリピートしている。