Omoinotakeの「幸せ」で感じたゾクゾクの考察
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自分はOmoinotakeの楽曲が好きなので、リリースされると毎回何回も聴いている。
ということで、新しく発表された「幸せ」も、早速ヘビロテしているんだけど、聴きながら「ん?」と思う自分がいたのだった。
というのも、今作の「幸せ」は、これまでのOmoinotaの楽曲とは異なる聴き心地を覚えたからだ。
は?異なる聴き心地・・・?
そう思う人もいるかもしれない。わかる。書いている俺も、書きながらにして、サンドウィッチマンの富澤が口を挟もうとしている感はある。そう。自分でも、この<異なる>具合を言葉にするのはちょっと難しいのだ。ただ、これまでの楽曲にはないゾクゾク感が宿ってはいたように思うのだ。
確かにゾクゾク感という表現が正しいのかはわからない。でも、何かが宿っているのは確かなのだ。
頭の中にいる毛利小五郎が、眉間に皺を寄せながらも、柄にもない態度で鋭い眼光を飛ばしている。「やめられるかよぉっ、真相を解き明かすのがぁ探偵の性なんでねぇ!」と言っている。そう。脳内にいるサンドウィッチマンの富澤は「ちょっと何を言っているのかわからない」とツッコミつつも、脳内にいる毛利小五郎は何を言いたいのかわからない「それ」が何なのかを解き明かしたくて、本気を出しているのだ。
今日の俺は、毛利小五郎の部分にベットしてみたい。
そこで、この記事では、Omoinotakeの「幸せ」に宿るゾクゾクの正体を考えてみたい。
Omoinotake 「幸せ」の話
・・・といきなり、大風呂敷を広げるような形で前説を書いてみたが、「幸せ」って、自分の中ではOmoinotakeの楽曲としてありそうでなかったタイプの楽曲、という位置付けだったりする。
というのも、この歌、ボーカルレスにして楽曲を聴くと、鍵盤の存在がとにかく強く、耳に届く。
もちろん、エモアキのベースとドラゲのドラムが歌の軸を作っているのだが、シラフでサウンドを聴くと、鍵盤が生み出す旋律とそこに絡まるシンセサイザーの印象にけっこう引っ張られる。それほどに楽曲に与えるイメージが大きい印象。
バンドとしてギターレスであるOmoinotakeらしいサウンド構成である一方で、今回はこの鍵盤の感じとシンセサイザーの色合いが歌謡曲感を強めている印象を受けるのだ。
Omoinotakeは楽曲によって軸となるジャンル性や楽曲のカラーが異なるバンドだが、今作は少し懐かしさを覚える歌謡曲のムードをはらんでいるように思うわけだ
で。
このムードを作り上げるうえで、鍵盤とシンセサイザーの存在が大きい。
かつ、歌謡曲的なムードを作り上げることで、今作は楽曲から聴こえてくるボーカルと、リスナーである我々の耳の距離をより縮めている印象も与える。
距離を詰める・・・って何の話だと思うかもしれないが、言葉を変えるのであれば、楽曲におけるボーカルの主役感がいつもと違うのである。
例えば。
「オーダーメイド」はサウンドもボーカルのイメージも柔らかいから、ボーカルと己の耳の距離に言及すれば、少し距離がある聴こえ方がするように思うのだ。
この距離感をあえて言葉にするならば、学校の帰り道、友達と並んで前を向きながら話しあうときの声の距離感、とでも言えばいいだろうか。
でも、「幸せ」はボーカルの口元に向けて己の耳を差し出している感じがするのだ。
だから、よりボーカルが入ってくるし、Omoinotakeのリスナーであればわかりきっている話であるが、改めてレオのハイトーンボイス、めっちゃ聴きやすくて、耳に入ってくる声だなあと感じるのである。
だから、サビでメロディーを伸ばすところなんかは凄い。聴いているこっちの目がガンキマりになるくらいに、ぐっと脳内に歌が入ってくるのである。こんなイメージだ。
どぉしてぇええーっ!!
<・><・>
どぉしてぇええーっ!!
<⚫︎><⚫︎>
もぉらぁあーてぇええーっ!!
<⚪️><⚪️>
・・・みたいなイメージ・・・。
要は、子音から母音がこぼれていく長音でのレオのボーカルの表情にぐっときてしまうという話。
あと、Bメロでは低音もちらりと見せつつも、サビに入る直前の小節ではファルセットをチラ見せする流れになのも良い。
この部分も聴いていて、良い意味でゾクゾクする
・・・と、ここまでボーカルの話ばかり書いてみたけれど、もうひとつのポイントとして、単に<聴かせる>歌になっているところもある。
というのも、この歌、サビではリフレインするメロディーとビートメイクが印象的で、ハイトーンボイスにうっとりとする一方で、リズムにのりたくなるグルーヴを生み出している。
絶妙にリズムが跳ねているため、テンポよく、気持ちよく、歌を聴くことができるのである。
それこそ前述した「どうして」の部分なんかは、まさにそんな代表だ。
エモアキとドラゲの絶妙なビートメイクが生み出せる技であり、ボーカルに終始する歌になっていないところも、冒頭で書いたゾクゾク感に繋がっているように思う。
まとめに替えて
にしても、冒頭でこの歌はゾクゾクするとかなんとか色々書いてしまったけれど、結局この歌を聴いて宿った感情の行方は、結局「幸せ」に繋がるんだよなーと思ってしまっている自分がいる。
なぜなら、この歌を聴いている最中の己の耳が常に幸せに包まれているからだ。
脳内にいたはずの毛利小五郎も麻酔銃いらずの大爆睡を行うような心地よさに包まれている、そんな感じ。
あと。
本記事ではあまり掘り下げてはいないが、エモアキの歌詞も良いよなーと思う。
ひとつひとつのフレーズが洗練されていて、言葉を重ねていくことで、意味がクリアになっていく感じ。
<飲み干した甘いサイダー>といったフレーズに代表されるように、僕と君の関係性を少ないセンテンスで着実に表現しながら、色んな感情の紆余曲折を描きつつも、最後は「幸せ」というパワーワードなキラーフレーズで、この歌詞が言いたいことの全て説明してみせる大胆さ。
歌で楽しめて、リズムで楽しめて、言葉で楽しめる、Omoinotakeのゾクゾクが詰まった楽曲だなあと痛感する。
そう。エモアキが歌詞を書いて、レオが曲を作って歌い上げて、それをOmoinotakeがバンドとして立体的な表現に落とし込むからこそ、このバンドの楽曲って毎回異なるテイストながらも、どの歌も刺さるんだよなーと改めて感じた、そんな次第。
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