ドラマ「カルテット」の主題歌である「おとなの掟」の歌詞について書いてみたい。
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*もしかしたらドラマ「カルテット」のあらすじに触れてるかもしれないのでご注意ください。
この歌、作詞作曲を担当したのは椎名林檎である。
そして、歌っているのは、「Doughnuts Hole」というグループである。
これは、このドラマに出演している、松たか子、満島ひかり、高橋一生、松田龍平の4人で構成されたグループであり、ドラマ上における彼らのグループ名と同じものとなっている。
ドラマでは、この4人はカルテットということで弦楽器を演奏しているのだが、エンディングの「おとなの掟」ではボーカルのみを担当している。
この曲を作った椎名林檎は、最初、4人は弦楽器も演奏するものだと思い、4人分の弦楽器部分まで用意していたと語っている。
さすがは林檎女である。
さて、ウンチクはこれくらいにして歌詞をみていきたい。
真っ黒な中に~匿います
吐息が見えるということは、僕がいまいる場所はひどく冷えているのだと思われる。
真っ黒=闇夜なわけで、冬の夜の外にいる僕の姿がイメージされるが、闇夜とは実際に外が暗いことを指しているだけでなく、心の闇や抱え込んでいる問題の深刻さなんかも表現しているように思う。
過去に問題を抱えているから、「普通の暮らし」ができない登場人物が出てきているのはドラマの物語ともリンクするし、「匿う」という表現は、現実や過去からの逃避を想起させる言葉である。
そんな「匿う」べき自分の願いなんて、口から出てはすぐに消えていく白い吐息のように儚いものであるというのも、このフレーズからイメージされる。
好きとか嫌いとか~滅びの呪文だけれど
白黒つけるのは滅びであると宣告する。
まあ、過去を隠し、自分の願いは表に出さないことで今を生きている人たちが白黒つけるような生き方をすれば、そりゃあ滅んでしまうわな、という話。
相手のことを欲しいと望めば、関係は崩れ、危うい雰囲気になってしまうドラマのストーリーともリンクしているフレーズである。
いずれにせよ、自分の欲望を忠実にさせることに対しては、どこまでも否定的であることはわかる。
手放してみたい〜らが出会えたら
知識や経験を積むことで不幸の階段を登ってしまった人たち。
こうなると、自分の知識なんて手放したいと考えるようになるかもしれない。
そうすれば、どれほど楽だろうかと考えるわけだ。
そういう余計な肩書きや過去がなくなれば、僕も「軽く」なれるのに、と思うわけである。
汚れてしまう前、もっと自分たちがキレイなときにみんなに出会うことができていれば、人生は変わっていたし、どんなに良かっただろうかと訴えるわけである。
そう人生は長い~僕らはグレー
人生は長いし、世界は広いわけで、場所変えていけば、自由を手にすることができる。
ドラマの別荘も、束の間の自由のひとつの形なのかもしれない。
けれど、それは過去を完全に切り離すわけではなく、どこまで行ってもその過去は自分を縛ってくる。
なくなったのではなく、見えなくなっていただけという事実。
その状態はまさに「グレー」と呼ぶに相応しい。
幸福になって~は秘密を守る
結局のところ、逃げた場所で一度束の間の幸せを手に入れても、またそこで不幸になってしまうような不条理さが歌詞から読み取れる。
胸のうちでは色々考えるし、嫌な想像も色々とする。
けれど、決してそれら口にはしないのだ。
だって「おとな」は秘密を守るから。
やたらと難しい漢字を使う傾向にある椎名林檎が「おとな」だけは(少なくともタイトルでは)平仮名表記にしているのは実に意味深である。
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もう少し考察を深めていきたいところではあるが、おそらくドラマで出てくる歌詞はドラマとのリンク性の強いフレーズになっていると思われる。
逆に言えば、ドラマではなかなかOAされない2番の歌詞にこそ、椎名林檎のメッセージなり独特のレトリックはふんだんに詰め込まれているような気がする。
ただ、それは一旦置いて考えならば、このグループである「ドーナツ・ホール」(あえてカタカナ表記に直しました)というのがポイントであるように思う。
これは、彼ら彼女らはドーナツのホールのように何かが抜け落ちた存在であることを意味しており、このドラマに出てくる登場人物は、見事なまでにドーナツホールのように「穴」がある。
過去に何かしら問題があることもそうだし、音楽家として成功できなかったということでもそうだし。
そして、そこに穴があることを彼ら彼女らはなんとかして隠して生きようとする。
もちろん、それを消し去ることができればそれが一番だが、それはもうできないのだ。
「唐揚げは洗えない。かけたレモンはもう戻さない。不可逆的なんだ」とは、高橋一生がドラマ中で述べたセリフだが、まさしくそういうことである。
消せない僕らができるのは、秘密を隠してしまうことである。
「おとな」ならば、そういう秘密は守るだろうし、守ることでグレーな生活と、束の間の幸せを手にすることができる。
けれど、問題はこのドラマの登場人物たちが「おとな」なのかどうかということだ。
年齢的には大人だから、「大人」であることは間違いないが、「おとな」という言葉を平仮名で表記したということは、もっと内面的な意味で「おとな」という言葉を使っていることがわかる。
ドーナツのように穴がある、と彼女らを称したが、これが指しているのは必ずしも過去のことだけではなく、内面のことも指しているかもしれない。
おとなとしてなければならぬ何かが、ドーナツの穴のように抜けている、そんな人物がグループの中にいれば、
グレーだった僕らはきっと真っ黒になってしまい、また吐息のようにその願いは消えてしまうのである。
その行く末を見届けるには、ドラマを見るしかない。
原作なしの坂元 裕二のオリジナル脚本なわけで、ここから先はまだ想像もできないわけである。
追記
さて、楽曲が配信リリースされた。
これに伴い、ドラマ版では放送されなかった歌詞も明らかになってきた。
耳コピしながら歌詞を広い、そこから歌詞の意味を深めていければと思う。
1番の歌詞でカットされていたのがAメロのこの歌詞。
真っ白な息が~?嘘でも本当でも
息というのは重要なファクターで、これは普段は心の奥底に隠している本音を指していると思われる。
それが白いのだから、この本音は誠実なる本音といった感じだろうか。
だからこそ、無垢な本音という言葉とセットになって出てくるわけだ。
この歌詞がドラマからカットされたのは尺が理由だと思われるが、すごく重要なフレーズでもなさそうで、最初のフレーズとサビを繋ぐブリッジという感じ。
さて、丸々カットされた2番の歌詞はこちら。
真っ新な子供時代教科書を~君の前だけだけれど
2番のAメロを歌うのが満島ひかりなので、ここはむしろネタバレ的な意味合いが強くてカットされたのではないかと勝手に思ってる。
ちなみにカシマシとはやかましいという意味の言葉。
ドラマを見ていれば、ピーンとくる言葉が並べられ、4話放送前から楽曲が解禁されたのも納得のいくようなフレーズとなっている。
そして、その後に続くCメロはドラマでもOAされている。
そのあと、この歌詞がくる。
好きとか嫌いとか~切実に生きればこそ
おとなは秘密を守るというのがこの歌のラストにあるわけだが、それと対をなすのが白黒をつけるという言葉である。
好きとか嫌いとか欲しいとか色んな思いが渦巻くが、大人なので、それは口にしないでいたけれど、少しずつ巧みな会話劇のなかで綻びをみせるのがカルテットの醍醐味なわけだが、登場人物のそういった心情を色濃くはんえいしているようなフレーズに思える。
この後のフレーズはドラマでOAされている大サビに繋がるわけだが、残りの歌詞を読んであなたはどう思っただろうか。
白黒つけるのは恐ろしいかもしれないが、それもまた一興だと思われる。
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新聞のコラムに「ルーマニアで『ドーナッツを売っている』は『あの人は嘘を言っている』という意味」という一文を見つけ、ふーん、こういう意味を含めたネーミングなのか、と製作者のドラマへのおもいを感じました。
おとなはみんなドーナッツを売るようになるの?社会的地位が高いおとなはいろんなフレーバーで。
ト書き通り、という歌詞だと思います。
もし間違えていたらごめんなさい。おとなの掟、2番まできちんと聴けてザワザワしました。とてもステキな曲ですよね。