椎名林檎の「おいしい季節」の歌詞について書いてみたい。

作曲︰椎名林檎
作詞︰椎名林檎

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前置き

元々この歌は2011年に栗山千明に提供した曲で、6年経ったこのタイミングでセルフカバーした次第である。

栗山千明にとって4枚目のシングルだったこの曲。

当時は栗山ロック三部作のトリを飾るシングルとしてリリースされた。

当時は椎名林檎が作詞作曲を手がけ、演奏は東京事変が務めたことでも話題になった一作。

今回、この歌は「明治 ザ・チョコレート」の新テレビCM「無重力空間」編のCMソングとなっており、今作のジャケットも(デジタル配信だけではあるが)もチョコレートになっていることから、このタイアップの話があったから今作をセルフカバーするに至ったことがわかる。

東京事変のラストライブでこの歌を披露した時のアレンジをベースにしながら、そこに斎藤ネコの弦楽器アレンジが乗っけたという感じ。

さてこの歌、I SCREAMとアイスクリームをかけたり、時間はアイスクリームのようにすぐに溶けてしまうと言ってみせたり、内実は親父ギャグレベルだったりするのだが、同じ親父ギャグでも、その辺のバーコード禿げのおっさんのダジャレと、椎名林檎のダジャレでは品が違うから不思議である。

なにより、当時は栗山千明嬢がこの歌を歌うことで、ただのダジャレは繊細な女性の心を描く言葉となり、多くの女性の胸に刺さるようになった。

歌詞の意味自体を簡単に述べたら、「もうそんなには若くない女性の恋愛心を切なく歌った歌」という感じになってしまうのだろうが、同じ歌詞でも時間が経てば浮かび上がるイメージや、見えてくるメッセージは変わるものである。

今回は私見を交えながら、新たにこの歌について考えてみたいと思う。

歌詞について〜導入〜

林檎嬢の歌詞の場合、見慣れない言葉や聞き馴染みのない言葉を平気で使ってくるので、まずはその辺を整理してみたい。

「流離う」は「さすらう」と読み、奥田民生の「さすらい」とかと同じ意味合いになる。

同じ「さすらう」でも奥田民生が言えば放浪感が出てくるが、椎名林檎が言うと逃避行なニュアンスが出てくる不思議。

「やり取り」という言葉も漢字表記で「遣り取り」と記しているが、これも言葉の意味として同じである。

「SHORT CUT」は、いわゆるショートカット=「近道」という意味になる。

また、「侭」はままと読む漢字であり、そのままの「まま」と同じ意味である。

さて、歌詞全体をみてみると、この歌には登場人物が二人出てくる。

一人が男性、一人が女性で、主人公は女側。

そして、Aメロではこの二人のすれ違いを描く。

仕事なのかわからないが、電話しても忙しそうにする彼。

「話題が継ぎ接ぎ」とか「自然じゃない構想法」という言葉で、この二人の会話がぎこちなく、噛み合わずに進んでいること、それは会話だけでなく、お互いの気持ちもそうなっていることを暗に示すわけだ。

そんな会話をするくらいなら、早く話を切り上げてと言わんばかりに「核心ついて」というフレーズをお尻にぶら下げるわけである。

2番のAメロも同じような構造をとる。

隔たってるのは電話での会話だけでなく、会って話しても同じようになっていることを告発するとともに、言葉じゃ上手く伝わらないから、体に触れるというショートカットのコミュニケーションをしませんか?と提案するサビの入り。

果たして、この二人は心を通わせることができるのだろうか?(まあ、そういう歌ではないんだけど)

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幾つかの対比

この歌には象徴的な対比が幾つかでてくる。

まずは、私と君の対比だ。

サビの頭は「I SCREAM」とあるように(SCREAM=金切り声をあげる)、私は声を出していることがわかる。

一方、君は黙っている、とある。

海外映画にありがちな、女がヒステリーになり、男は黙ってその罵声を浴びるようなサマがなんとなく浮かぶ。

ヒステリーになるということは、頭に血が上っているというわけであり、それをICE=氷で冷やして相殺して、この場を楽園に変えようとしているのがラストのサビ。

君が何人もいるなら、一人の君と関係が拗れたら違う君を選んだらいいわけだが、君は一人しかいないわけで、永遠を望むなら君と「仲直り」しなければならないわけだ。

望んでいたような永遠の世界は滅亡したかもしれないが、それならば新しい楽園を作り上げようというわけである。

だから、一番では「流離う悪者である旬」が「まさに今でしょ」に変わるわけである。

ところで、この歌の「時間」とは何を指しているのだろうか?

時間を食べきろうとか、時間は溶けてしまうとか、色々時間に対する記述は見受けられるものの、その時間がどれくらいのスケールを提示したものなのかがはっきりとしない。

二人の幸せでいれらる時間が限定的であることを指した言葉なのか、私が美しくいられる時間が限定的であることを指した言葉なのか、この二人は一生一緒にいるつもりだから寿命そのものを指した言葉なのか、そこが明かされていない。

何より旬は今でしょ、と歌った歌を6年後にカバーするのはすごく象徴的で、二人の関係や女性の美貌には「美しい侭でいられる賞味期限」があるわけだが、歌は時間を超越することを明らかにしてしまうわけである。

アイスクリームのように、あるいはチョコレートのように消えて風化することはないのだ、音楽というものは。

つまり、音楽は溶かすことができないわけで。

これをカバーしてリリースすることで、ここにもう一つの対比が生まれるわけだ。

現実に立ち返れば、6年の月日で「溶けてしまっな時間」と「循環され続けている時間」が見えてくると思う。

恋人は同じだけど、その関係性が変わったという人もいれば、恋人は変わったという人もいれば、ずーと独り身で、ずっと同じような毎日を繰り返している、という人もいると思う。

「おいで」と命じることで、まだ自分の側に寄ってくれるものは何なのか?

「おいで」と命じても、もう自分の側に寄ってくれないものは何なのか?

この6年により、変化したそれが浮き彫りになるはずなのだ。

だからこそ、この歌詞の意味合いが大きく変容するわけだ。

音楽だけは不変的に残り続け、その周りを取り巻く自分を含めた様々なものが変わっていった構図が明らかになるわけである。

人生はサザエさんやドラエもんの物語のように可逆的ではない。

だからこそ、同じフレーズでも「刺さり方」が変わるわけだ。

あなたがアイスクリームのように溶かした時間で、作り上げた楽園=未来はどのようなものだっただろうか?

それを胸に当てて考えるときに見えた景色、それが、この歌の新たなるメッセージと結びつくのではないか?と僕は思う。

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