King Gnuの「MASCARA」の感想
King Gnuの「MASCARA」の感想を書こうと思う。
この記事を読んでいる人のほとんどは承知だとは思うが、King Gnuの「MASCARA」は常田大希がSixTONESに提供した楽曲「マスカラ」のセルフカバーとなる。
SixTONESの「マスカラ」も作品として魅力的だと考えていたし、ここからどう解釈しなおすのかなーなんてことを思っていただけで、そこはKing Gnu。
「マスカラ」としての魅力を感じさせながらも、きちんとKing Gnuがカバーするからこその魅力が充満しているカバーになっているのだった。
イントロから香る圧倒的な洒脱な感じ
King Gnuって、様々なサウンドを鳴らすバンドだ。
ミクスチャーっぽいテクニカルで躍動感のあるバンドサウンドを鳴らすこともあれば、オーケストラ感が満載の繊細なサウンドを鳴らすこともある。
そもそも、作詞作曲を行う常田大希がギター、ピアノ、プログラミング、何度もござれで楽曲を弾く人間なのだから、サウンドの横断が凄まじいのは当然のこと。
特にクラシックの造形がありながらも、ゴリゴリのバンドサウンドもパンチ力を持って演奏できるのは常田大希特有の魅力であるように感じる。
なので、甘さに傾倒することもできれば、辛さや渋みに傾倒することもできる。
高級フレンチ料理のシェフかと思ったら、じっくり煮込んだ筑前煮も平然とした顔で提供するような予測のつかない料理屋さん。
だからこそ、自ずとアレンジの引き出しは無数にあるし、楽曲の装いや世界観も楽曲ごとにがらりと変わる。
で。
「MASCARA」はイントロの段階で、思わずニヤリとするような、洗練された洒脱さを展開していく。
ぶっといギターを鳴らすこともできる中で、この一音一音を丁寧にして、しっとりとグルーヴを生み出すこの感じ。
常田大希が秀逸なのは言うまでもないことだが、勢喜遊や新井和輝といった役者の「理想としている世界観を生み出す解像度」が高すぎるが故、楽曲ごとに”別人”になっているかのような、良い意味で別の曲の”足跡”を残さない巧みさを、冒頭のイントロだけでひしひしと感じることになる。
ボーカルから漂う、突き抜けた官能さ
そして、サウンドで完全に洒脱なお膳立てがしたところに、井口理の麗しすぎる澄み切ったボーカル。
井口理のボーカルとしては、そこまでキーが高くはないと思うんだけど、キー以上に声に透明感あるハイトーンみを覚えるような、そういう繊細な歌声。
そういう意味でいうと、井口理のボーカルは良い意味で期待通りの存在感とも言える。
井口理のボーカルが好きな人の、井口理らしさが詰まりまくったような、そんなボーカル。
聴くことで癒えるとは、こういうこというのかもしれない。
あるいは、メロディーとして教授できるタイプの官能小説、と言えるくらいの艶っぽさもある。
人によっては、井口理のボーカルを女性的と捉えるが、それはこういう艶っぽさやハイトーン具合、耳に対してどこまでも繊細さな響きが、そんな印象を与えるのかもしれない。
洒脱なサウンド × 澄み切ったボーカル。
そりゃあ、マスカラだったタイトルも、MASCARAにせざるを得ないわ、と思うわけである。
後半に繰り出す、ラスボス的な常田のボーカル
だからこそ、Dメロで常田大希の待ってました感もやばい。
井口理のボーカルと対極的な魅力、具体的にはオラオラ感があって、ゴリゴリ感がある、ガレージ的な歌声。
それがここぞのタイミングで差し込まれるから、楽曲のドラマチックさが、より際立つというものである。
ただし、井口理のボーカルも、常田大希のボーカルも、どちらも特有の品があるなーとは聴いていて思う。
何をもって品があるというのかは、あえてあまり説明しないが、耳にしっかりと馴染むという表現で言葉にしておきたい。
その耳の治り具合に”ボーカルの品の良さ”を感じるのである。
まとめに代えて
結論、カバー曲でもKing Gnuは圧倒的にKing Gnuだったという話。
サウンド軸とボーカル軸で、魅せられるだけ魅せていく。
だからこそ、このバンドはたくさんの人を魅了しており、何年にもわたって、日本の音楽シーンのトップ的な位置に君臨し続けるんだろうなーと、そんなことを思った、そんな夜。