前説

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新曲を聴くと、やりやがったと思うことがある。

ここで言う「やりやがった」というのは、良い意味で、の話だ。

良い意味で自分の想像を超えてくる楽曲に触れたとき、思わず「やりやがった・・・」と口をこぼしたくなるのだ。

そんな楽曲に12月、早速出会った。

やりやがったのは、King Gnuである。

「千両役者」でがつーんとくらわされたわけだ。

そこで、この記事では、新曲「千両役者」の感想を書いていきたい。

本編

King Gnuのというバンドのイメージ

今となっては、King Gnuはたくさんの人に認知された国民的バンドとである。

もっともチケットが取りにくいバンドの一組であり、メガフェスでもトリを務めるバンドであり、紅白にいたって「自ら辞退する」ほどの存在感を誇るバンドである。

King Gnu=国民的人気を誇るバンドとカテゴライズしても、そこまで異を唱える人は少ないと思う。

ただ。

それだけ大衆的であろうとすると、作風が少しずつ変化していくという現実がある。

言ってしまえば、ポップに舵を切った作品が多くなるわけだ。

実際、King Gnuは明らかに昔と比べると、歌メロ感の強い歌が増えてきた。

ただ、King Gnuがシーンに登場してきたとき、「歌メロ」とか「ポップ」というキーワードはなかったのだ。

じゃあ、彼らはなんて言われていたのか。

全メンバーが様々なジャンルをインプットしてきて、独自のアウトプットとアンサンブルで提示する彼らの音楽を指差して、このように言われていた。

「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイル」。

そう。

それがKing Gnuの音楽性を指すキーワードだった。

ただ、最近のKing Gnuの音楽はこのミクスチャー感が薄まっていた気がするのだ。

楽曲を作っている常田の口からも、意図的にポップであること(構成としてきちんとサビを入れること、サビを盛り上げる構成にするなど)を志向した作品を作っていることが明かされている。

ということもあいまって、初期の頃に宿していたある種のヒリヒリ感は少しずつナリを潜めている節があったのだった。

が。

そのタイミングでリリースされたのが「千両役者」だったわけである。

で、この作品を一言で言ってしまえば、今のKing Gnuが作り出すトーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルって感じがして、とても良いのだ。

少なくとも、自分はそのかっこよさに脱帽したのだった。

いろんな音がスタイリッシュに、ガツガツ鳴っている。

ギターは躍動しているし、リズム隊は信じられないほどにゴリゴリで。

ある種のダイナミズムみたいなものを感じさせる・・・・

んだけど、単に荒々しいだけじゃなくて、洗練されたおしゃれさみたいものも感じさせる。(そこがトーキョーというワードの意味する要素でもあるだろう)。

低音と高音のバランスが絶妙で、いろんなタイプの音が重ねることで唯一無二の快楽を生み出すのだ。

ああ、そうだった・・・・。

King Gnuって、こういういろんなものを混ぜ込んだ上で、洒脱でかっこいいサウンドを痛快に鳴らすバンドだった・・・。

そう思ったのである。

トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルのKing Gnuが、「千両役者」の作品にははっきりと存在していたのである。

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原点回帰したというわけではない

ただ、こう書いてしまうと、あーよくある原点回帰の作品なのね、と思われてしまうかもしれない。

が、そうではないということも強く言っておきたい。

むしろ、ここが重要だと思うんだけど、確かに「千両役者」はトーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルのKing Gnuみがあるわけだけど、ここに「今のKing Gnuの」という枕詞がつくのだ。

今のKing Gnuがトーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルに向かい合った結果の溌剌さみたいなものが、この作品から強く感じるのである。

この数年で蓄積した様々な知見や、磨き上げられた音楽的センスが加味されて、今のKing Gnuでしかたどり着けないミクスチャー性が作品に宿っているわけだ。

ポイントの一つとしてあるのは、常田と井口のボーカルの歌い分けだと思う。

井口がボーカルのメインを取ると、一気にメロディーの綺麗さみたいなものが際立つ。

一方、常田がボーカルのメインに取ると、楽曲の中に眠るエッジの部分が際立つ。

このコントラストが鮮やかなのである。

今までのどんな作品よりも鮮やかかもしれないと思う。

あとはメロディーの割り方も面白い部分が多いなーと思っていて。

例えば、2番のAメロの常田パートのラスト。

同じリズムを繰り返すことで、独特のドライブ感をこのパートで生み出す。

ボーカルが少しずつフェードアウトするような流れになるため、裏で鳴っているリズム隊のヤバさも際立つような構成となっている。

メロディーでも魅せるし、個々のパートの演奏力でも魅せるし、様々な楽器が融合して生み出すグルーヴみたいなもので魅せるし・・・みたいな感じなのだ。

間奏終わりのパートの入り方もそういう絶妙さがある。

わりと色んなものが混ざり合っているごちゃごちゃ感もあるんだけど、その一つ一つが研ぎ澄まされているから、やがてそこにはある種のアート性を感じることもできて。

そういうのをまとめて、ああKing Gnuの音楽ってこういうところが凄いんだよなあという気持ちにさせられるのである。

あと。

これだけサウンドが躍動しているにも関わらず、イントロとアウトロはなしでスパっと切っており、楽曲全体としては3分という尺になっているところも凄い。

カップラーメンが出来上がるだけの時間しかないのに、その音の密度がとても濃いのだ。

こういうレベル、ラインの音楽を「ポップス」に落とし込みつつも、自分たちの美学をきっちりバンドサウンドで魅せつける。

相変わらず、King Gnuというバンドがとんでもないことがわかる楽曲である。

結果、やりやがったという感想に行き着くというわけである。

まとめ

今更King Gnuがヤバイのはわかっているけれど、まだまだそのヤバさを更新するバンドであることがはっきりとわかった。

「白日」のイメージでとどまることは一切ない。

しかもマニアックなファンベースの話ではなく、もっと大きいレベルでそれを達成しているから、このバンドはとんでもないんだよなあと思う。

来年も活躍が楽しみすぎるバンドである。マジで。

関連記事:King Gnuの「三文小説」の美しさと不気味さについて

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