KinKi Kidsの「Amazing Love」が生み出す美しさ
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忙しいというのは、良いこともあれば、悪いこともある。
少なくとも、音楽を聴く、という観点に経ったとき、忙しいというのは難儀である。
もちろん、ワイヤレスイヤホンがあるから移動中に音楽を聴くことはできる。
けれども、忙しくなってくると、移動中に音楽を聴く、という際も<片手間>感が増えてしまい、脳内は別のことにリソースを割いているということも多くなるのだ。
要は、音楽への没頭度が下がってしまう。
いや、もちろん、それでも音楽は聴くんだけど、どうしても聴き方そのものがせわしなくなってしまうのだ。
ただ、こんなことを書きながらも、これって悪いことばかりではないとも思いう。
というのも、お腹が減れば減るだけ飯を食ったときの<上手さ>が際立つわけで。
我慢すればするほど、その我慢が解かれたときの喜びってひとしおだと思うわけで。
そう。
じっくり腰を据えて音楽が聴けない時間が長ければ長いほど、ふいに旋律にふれる音楽に出会ったときの<染み方>がどこまでも半端ないことになる。
そんなふうに思うのだ。
実は、先日もそういう機会があったあ。
KinKi Kidsの「Amazing Love」を聴いた瞬間が、まさしくそれだったのだ。
そこで、この記事ではKinKi Kidsの「Amazing Love」の話をしてみたいと思う。
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本編
KinKi Kidsの「Amazing Love」の話
この曲は、KinKi Kidsのキャリアにおいて重要な存在の山下達郎作曲のミディアムナンバーだ。
KinKi Kidsと山下達郎といえば、「硝子の少年」を想起する人も多いだろう。
当時のジャニーズグループの多くが、デビュー曲は若さを売りにしたピュアなアイドルソングが多い中で、KinKi Kidsの「硝子の少年」は切ない歌謡曲感が際立つ、デビュー曲としては異色のナンバーであったように思う。
山下達郎が持つソングライティングのセンスと、幼さを残しながらも成熟した表現力を持つKinKi Kidsの才能が巧みに融合されたナンバーだった。
そんなにふうに思っている。
あれから25年。
KinKi Kidsと山下達郎のタッグでリリースされたのが「Amazing Love」なのである。
なお、今作はKinKi Kidsの二人が作詞を手掛けていることもあって、言葉の重みと深さも際立った作品になっている。
ところで、聴いて感じたのは、KinKi Kids二人の歌の上手さである。
特に「硝子の少年」の比較すると、ハモリパートのナチュラルさが際立っている。
色んなタイプのハモリをみせるが、これがとにかく上手いのである。
堂本光一が低音のパートを歌い、堂本剛が高音パートを歌う際の、バランス感が絶妙で。
二人の歌声の持ち味を丁寧に活かし、どちらかが過剰になることなく、美しいハーモニーを奏でるのだ。
しかも、光一がメインパートを歌っていたかと思えば、さっと剛のパートが存在感を示す瞬間があって、そのコントラストも鮮やか。
数々の楽曲を歌いこなしてきた、この二人だからこその息の合い方を感じさせる。
素晴らしいのは、ハモリパートだけではない。
この歌は、単語レベルのセンテンスで歌い分ける部分があるんだけど、その歌のリレーも秀逸なのである。
「不安かもしれない」「孤独かもしれない」「悲しいかもしれない」「寂しいかもしれない」
このフレーズを歌い分け方が、絶妙で。
それぞれの頭の単語を二人が分け合って歌うことにも、大きな意味があるように感じる。
また、
輝きたい(僕ら) 我儘じゃない(いつも)
生きることを(一緒に) 愛したいよ(もっと)
ここの、剛が歌ったあとに光一が追いかける流れも秀逸だ。
個々の歌声のボリュームのバランスが悪いとちぐはぐ感が生まれてしまうこのパートにおいても、際立つのは圧倒的な美しさなのである。
いや、ほんと、ハモリ、追いかけなど、楽曲の中で色んなパターンのハーモニーを奏でるのが、「Amazing Love」の面白さであり、美しさだよなーと思う。
そして、こういったパートやソロパートの存在感が際立てば際立った分、二人がユニゾンしたときの破壊力が半端ないことになるのだ。
ここぞのワードのときに二人の声が同じ音程で重なることになるその瞬間の輝きに、ゾクゾクすることになる。
山下達郎が生み出す美しいメロディーを、二人の美しい歌声が紡ぐからこその破壊力。
そりゃあ、こんな身体にそういう歌を取り込んだら染みてしまうわ・・・という感じなのである。
まとめ
25年のキャリアをもって、さらに表現力に磨きをかけたKinKi Kids。
このタイミングで山下達郎とタッグを組んだからこそ、円熟した魅力を改めて実感することになった、そんな次第。
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