BUMP OF CHICKENとRADWIMPS、アニメ映画主題歌のとき「せーの」と言いがち説

BUMP OF CHICKENの話

今年のBUMP OF CHICKENの新曲のひとつである「Gravity」。

この歌は、アニメーション映画「思い、思われ、ふり、ふられ」の主題歌である。

優しいにおいが全面に立ち込める手触りの良い歌である。

しっとりと曲が展開して、壮大というよりは素朴な印象が残る歌である。

アレンジが素朴な分、言葉が印象的に残るのも特徴である。

この歌を聴き進めていくと、最後のサビのフレーズで、

せーので全て飛び越えて

というフレーズが出てくる。

「せーの」という単語は、過去のBUMP OF CHICKENの歌でも出てこなかった気がするので、妙に印象に残った。

んだけど、ふと思い返すと「せーの」というワードをアニメ映画主題歌でしのばせたバンドを思い出した。

RADWIMPSの話

そのバンドとは、RADWIMPS。

具体的には、「夢灯籠」という曲である。

この歌はアニメ映画である「君の名」に使用された歌である。

「君の名は。」のアルバムで最初に収録されている歌でもあり、青春性のある爽快なロックソングになっている。

「せーの」の言葉でサウンドが幕開けるような構成になっており、「せーの」は作品中でも重用な位置づけになっている印象を付ける。

野田洋次郎はAimerに提供した「蝶々結び」でも、「せーの」というワードを印象的に使っていた。

何がいいたいかというと、BUMPのこの楽曲とRADのこの楽曲で、どこか「つながり」を感じるなーという話。

その理由は「せーの」という言葉でつながっているから、という話である。

両者のインタビューを読めば、「せーの」の言葉についてもう少し細かく書いているかもしれないが、ここではそういう話は割愛する。

そういうオフィシャルな場で語った本人たちの意図というよりも、客観的にみてもある種の似ている部分を持ち合わせている二組のバンドが、ともにアニメ主題歌において、キーマンとなるフレーズを同じ言葉に託すというところに、妙なロマンを感じるなーというのが、この記事の主題なのである。

バンドの楽曲作りは色んなところから影響を受ける

当たり前な話かもしれないが、どんなクリエイターも色んなものに影響を受けながら作品を作る。

作品の核となる元ネタは一本はっきりと意識していることも多いが、実際のところは色んな要素の影響が集積して、ひとつのアウトプットを生み出している。

もちろんこういったタイアップ作品であれば、原作がもっとも重要な要素にはなるわけだけども。

でも、当然それだけではないわけで。

最近きいた音楽だったり、何気ない人付き合いとのコミュニケーションであったり、もっと様々な生活の中でインプットが積み重なり、ひとつのアウトプットを生み出していく。

そう。

色んなインプットが集積することで、やがて、ひとつのアウトプットが生まれるわけだ。

個人的には、そのインプットの幅広さにこそ、アウトプットの質が大きく左右されると思っていて。

「近いもの」からしかインプットしていない音楽と、「遠いところ」からも積極的にインプットしている音楽なら、後者の方がワクワクする可能性が高い気がする。

この「遠いところ」っていうのは、時間軸でもいえるし、音楽のジャンルの軸でもいえるし、そもそも音楽以外のエンタメという軸でもいえるし、もっと社会的な範囲(時事ネタとか)にまで敷衍しているいえることだと思う。

もちろん、広げたものを全て活かす必要はないんだけど、アウトプットから見える豊潤な集積にドキドキすることはよくある。

それは間違いない。

色んなものをインプットして吸収しているような眼差しであれば、やっぱり面白いものができやすいんじゃないかなーと勝手に思っている。

思えば、歌詞の世界観においてもサウンド面やリズムメイクにおいても、BUMPとRADって常に相当に「遠いところ」からアイデアを持ってきていたバンドだと思う。

扱っているアウトプットの内容や、インプットしている種類は昔と比べて大きく変化したかもしれないが、常に「遠いところ」からもインプットしていくというその点に関しては、今も昔も、そう変わりはないと思うのだ。

そして、そんな二組のバンドが、色んな知識とかアイデアを投入して作品を作る中で、運命的に「せーの」の言葉でつながった奇跡。

そこに、なんとなくドラマを感じたのだという、話なのである。

まとめ

とくだん、オチはない。

んだけど、おそらくプレイベートでも付き合いのあるバンドだから、お互いの作品に影響されることもあるのかなーとは、ふと思った。

それは「「盗む」とかそういうレベルの話ではなくて、良い意味で己の刺激する存在でいるのかなーなんてふと思った次第。

いや、別に「せーの」がそうであるとか言うつもりはないけれど、もっと根源的なレベルで意識している部分はなくはないのかなーなんて思ったりはするわけだ・

まあ、そんな話はどうだっていいかもしれない。

歌詞って聴くときは、なんとなくで流して聴くこともあるけれど、作るうえでは何度も単語を変えたり、言い回しを変えて紡ぐわけで。

そこで残った「せーの」という単語に、勝手に尊さを覚えちゃうという、ただそれだけの話なのだから。

ぜひ「せーの」にも注目しながら、両曲をきいてもらえたらと思うばかり。

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