BUMP OF CHICKENの楽曲から考える人の励まし方
人を励ます言葉の代表として「頑張れ」という言葉がある。
でも、「頑張れ」という言葉って励ますシーンに合うときと合わないときがある。
逆にもうやれるだけのことはまだやっているのに、まだ足りないっていうのかよ、っていう気持ちにさせて追い込んでしまうことすらある。
そういうとき、どんな言葉をかけたらいいのか。
この記事ではBUMP OF CHICKENの歌を参照しながら、そのことを考えていきたいと思う。
本編
ray
「ray」って悲しさと強さを持ちあせた不思議な歌である。
前向きになれそうな宝石のような言葉が並んでいる一方で、痛みや辛さにも視線をそらさず、それそのものを受けようとする姿勢も垣間見られる。
こういう励ましの歌ってあんまりなかったように思う。
この痛みすら受け入れる眼差しって、励ましをする上でも重要なのではないかと思うのだ。
結局なところ、綺麗事を並べても励ましの言葉って響かないものである。
そして、その励ましの言葉がその人の自己肯定に繋がらなかったら、結局は力にならないと思うのだ。
この歌は綺麗事を並べずに受け入れる姿勢を持つからこそ、「生きるのは最高」という言葉がどこまでも輝いていくのである。
頑張れという言葉をかけないという現実があるということは、そこには納得のできない何かがあるはずで、その何かに対してごまかさず向き合いつつも、それそのものを受け入れさせる優しさをみせたとき、励ましの言葉は柔らかい毛布のようなものになるのではないか、と思うのである。
才悩人応援歌
BUMPが「応援歌」と名付けたこの歌。
テイストは別に全然応援していない。
敗北を経験した人なら絶対持っているような屈折した感情を赤裸々に語った歌である。
でも、先程の項目でもそうだったけれど、この汚い感情に対して目を背けない姿勢こそが一周まわって励ましの言葉となるのである。
BUMP OF CHICKENの歌が心の奥底まで届く心地がするのは、意外とこういうごまかさない姿勢にあるのではないかと思うのである。
人によっては、中二病と揶揄されるような黒い感情もきっちり言葉にするのだ。
しかも。
BUMP OF CHICKENの場合、それを単なる悪口にして終わらせるのではない。
その汚い感情を受け入れ、肯定し、昇華していくような優しさも内在しているのである。
BUMP OF CHICKENの歌には口が悪い歌と、優しさがにじみまくっている歌の両方があるけれど、その根底にあるのはどちらも同じな気がするのだ。
だからこそ、スタンスや切り口が違っていても、どんな歌も刺さるのではないかと思うのである。
「Hello,world!」
殺伐さは初期の楽曲にしかないというイメージもあるけれど、必ずしもそういうわけではない。
BUMP OF CHICKENには、疾走感のある歌に限って、辛辣なことを言いがちという法則がある。
「Hello,world!」も丁寧に歌詞を追うと、わりとそういう要素が強い。
通底しているのは、感情をさらけ出すからこそ、言葉のひとつひとつが丁寧に刺さるという法則。
「励ます」というのはポジティブな言葉を並べたらいいと思われがちだけど、そんなことはない。
特にロックが好きな人は、ポジティブな言葉の裏に見える欺瞞に敏感な人が多い。
だからこそ、言葉の肌触りがいいだけだったらその言葉にはなかなか刺さらない。
その言葉によりかかってもいいんだという信頼感があってこそ、成立するところがある。
ネガティブな歌が刺さるというよりも、そこに安易な欺瞞がないことをさらけ出すために包み隠さずに感情を吐露する必要があったわけだ。
それは「励ます」という行為においても重要だったわけだ。
BUMP OF CHICKENの歌には、そういうストレートさがある。
比喩や擬人法は多いけれど、気持ちを届けるという意味ではBUMP OF CHICKENの歌には欺瞞のないストレートさがあった。
だからこそ、刺さったのだ。
「励まし」においても、それは変わらないのだろうと思う。
まとめ
表現法とか言い方とかではなく。
素直に思った率直な励ましこそが人の心に刺さるのではないか。
そんなことを思うのである。
励ます側と励まされる側に、きちっとした関係性があれば、中途半端な技法なんて不要で、正直なことが一番大事なのかもしれない。
BUMP OF CHICKENをきいて、そんなことを思うのである。
関連記事:BUMP OF CHICKENの楽曲って、タイトルの付け方が良いなあと思う話
関連記事:BUMP OF CHICKENの「邂逅」が突き刺さる件