なんでも楽器にしてしまう米津玄師の恐ろしさについて
米津玄師の「馬と鹿」を聴いて気づく、恐ろしさ
皆さん、恐ろしいものってありますか?
僕はベタにお化け屋敷が恐ろしいです。
なんというか、お化けそのものが怖いというよりも、暗いところで当然大声をあげられたり、場合によっては身体を触れてくるそういうシチュエーションに恐怖を覚えるわけです。
あと、怖いといえば、ジョットコースター。
これもジェットコースターそのものが怖いというよりも、高いところから急降下したり、超高速でコーナーを曲がって三半規管に揺さぶりをかけてくるそのシチェーションに恐怖を覚えるわけです。
三半規管が弱い自分の場合、マジで途中でゲロを漏らす可能性があって、わりと気が気じゃないんですよ。
そういう意味では、音楽を聴くという行為は安心です。
少なくとも、そういう恐怖心を覚えることはありません。
だから、音楽を聴くという行為は素敵だなーと思うんですけど、極まれに聴くだけで恐怖心を与えてくるアーティストがいるんです。
その一人が米津玄師。
いやね、米津玄師の「馬と鹿」に収録されている3曲を聴いているときに思いました。
米津玄師は恐怖だわ、と。
いや、まあね。
とっくに米津玄師がヤバイのは日本全国が認識しているとは思うんですよ。
リリースする曲が鬼のような再生数を誇っているし、リリース曲がことどとく快作なわけで。
ただね、ここではもう少しその「恐ろしさ」の正体は掘り下げたいなーと思うわけです。
米津玄師の具体的な恐ろしさ
今更ではあるんだけど、米津玄師の恐ろしさって、どんな音でも楽曲を構成するサウンドにしてしまうところにあると思うのだ。
例えば、「海の幽霊」。
関連記事:米津玄師「海の幽霊」がヤバすぎてゲロを吐く一方手前になった話
前述の記事でも簡単に触れたけれど、自分の声に対するエフェクトのかけ方が「メロディーをより良く聞かせるため」のそれではないところに恐ろしさを感じるのだ。
これって、自分のボーカルさえも、ある種楽器にする発想があった故のアプローチだと思うのだ。
少なくとも日本のポップスで、J-POPとカテゴライズされる音楽で、自分の声にここまで大胆なエフェクトをかけられるのは米津玄師しかいないと思う。(まあ、Perfumeもそうかもしれないけれど、彼女たちはまたちょっと音楽性が違うように思う)
で。
「海と幽霊」だけでも相当な恐ろしさを炸裂していたのに、「馬と鹿」の3曲を聴いていると、後半でさらなる恐ろしさを発揮することになる。
「馬と鹿」のカップリングとして収録されている「でしょましょ」。
ここに、その秘密が隠されている。
【CD】(全形態共通)
01. 馬と鹿
02. 海の幽霊
03. でしょましょ
引用:米津玄師 official site
「でしょましょ」の話
この歌は、人の笑い声とか赤ちゃんの鳴き声を普通にサウンドとして挟んでくる。
なんというか、人の声を普通に楽器のノリで使ってくるのだ。
音に対する捉え方が、普通のセンスじゃないのだ。
特に「でしょましょ」のアウトロ。
ここはマジで発狂ものである。
シュールコントよりも展開されている内容が、シュールなのである。
こんなん、普通はもっとアンダーグラウンドな人がやるようなアプローチだぜ?
それを日本の若手音楽界のスターがやっているんだから、末恐ろしい。
しかも、おそらくは、この部分がライブの歓声のあがるポイントになる。
そう考えると、その恐ろしさがより具体性をもって増してくる。
しかも、米津玄師って、カップリングだからこういう実験的なアプローチをしている、というわけじゃない。
シングル曲やタイアップ曲でも、スキがあれば平気でこういうことをやる。
「馬と鹿」は幸い声を楽器にするようなアプローチはないけれど、これはシングル曲だから取り入れなかったわけじゃないと思うのだ。
おそらく、たまたまこの楽曲ではそういうアプローチは入れる必要がないと判断した。
だから、取り入れていれなかっただけだと思うのだ。
まとめにかえて
たぶん。
そのうち。
米津玄師は、声ネタを進化させた果てに、きっとこういう歌をリリースすると思う。
米津玄師がサブリミナル効果を発揮させるとき、日本の音楽シーンはさらなる広がりを見せる。
それくらい、米津玄師の音楽ってスリリングだよねーという話である。