前説
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Official髭男dism(以下、髭男)の藤原が「イエスタデイ」という歌で、「悪者は僕だけでいい」と歌っているが、とんでもない。
藤原のようなお方を<悪者>になんてさせられない。
藤原が<悪者>になるなら、俺が<悪者>になる!とダチョウ倶楽部よろしくなテンションで記事を書こうと思い、「イエスタデイ」を聴き始める俺。
悪者になるとしたら、とんでもないディス記事を書くしかないし、悪いところを見つけまくってボロカスに書いてやるぞと思ってこうして記事を書き始めているわけですけど、思いましたね。
これ、ディスるの、無理ですわ。
本編
Official髭男dismの「イエスタデイ」の話
この歌って「HELLO WORLD」のために書き下ろされたわけでしょ?
で、その書き下ろし感を伝えるのが上手いよなーと思うんですよ。
だって、いきなりイントロで、秒針の音が聞こえてくるでしょ?
原作を知っている人なら、これだけでやろうとしていることがなんとなくわかる。
おまけに、歌詞で言わんとしていることも原作の内容を知っている方ならなんとなくわかる感じで。
ネタバレにはならんレベルで原作のワクワク度を上げていて、流石は髭男だわと思うのだ。
タイアップ作品としての仕上がりは完璧なわけです。
まあ、映画原作はかなりクリティカルな作品で、複雑な情報処理を要する作品だから、映画がどういう表現をするのかわからないので、まだ何とも言えない部分はあるんだけどね。
何が言いたいかというと、この作品はたぶん映画とにらめっこしながら語る方が良いと思うのである。
だけど、映画未公開だし原作と映画がどれほどリンクしているかわからんし、そもそもネタバレに触れるのも微妙だしということで、この記事ではそういうことは全て脇において、純粋に「イエスタデイ」の感想を書きたいなあと思うのだ。
サウンドの話
イントロを聴いただけで「あ、これは蔦谷好位置アレンジだな」と感じる、全体的にカラフルなサウンド。
この歌にも出てくる、“虹の先”を予感させるような広がりのあるアレンジになっている。
特に打楽器の音使いが面白い。
イントロでは時計の秒針が打楽器の役割を果たしている。
この発想が面白い。
ドラムがいるバンドで、こういうアイデアを持ってきて、なおかつそれを完璧な形で取り入れちゃうところがすごい。
で、イントロは途中からバスドラムが入り、テンポよく4つ打ちでビートを刻んでいく。
イントロ最後では、バスドラムが深めの音を響かせる。
その音の余韻が続くなかで、藤原のボーカルが入り、Aメロへと突入していく。
で。
打楽器の使い方が特に面白いなーと思ったのは、サビへの入り方なのだ。
日本のポップスってサビが重要なので、メロとサビをどのように接続させて、サビを盛り上げるのかが重要になる。
わりかしよくあるのが、サビ前に音を一旦止めて間を作り、ボーカルまたぎでサビに入った瞬間にバンドサウンドを炸裂させる、というやつ。
これをするとサビへのインパクトが強くなるので、わりとよくやりがちなのだが、「イエスタデイ」の一番のサビはそんな常識を打ち壊す。
なんと、イントロで出てきた時計の秒針の音が、Bメロからサビまたぎを担うのである。
この発想が面白いなーと思った。
これは「イエスタデイ」が「HELLO WORLD」の主題歌だからこそのアイデアだとは思うんだけれど、普通の楽曲にはないサビへのまたぎ方をすることで、サビのワクワク度を特別なものにしている。
2番に入ると、バンドサウンドと蔦谷アレンジが積極的にミックスされていき、よりカラフル度が増していく。
で、ここでも面白いのは、1番ではトリッキーにみせたBメロからサビの流れを、2番では思いのほかさらっと処理していること。
聞けばわかるけれど、2番では何のためもなくさらっと曲が進行していくのである。
で、ここから間奏→静かなサビ→サビ→コーラスパート→サビ→アウトロという流れになっていくわけだけど、この歌ではわりと間奏の時間にしっかりめの尺が取られている。
まあ、髭男はシングル曲でもしっかりめに間奏を取るバンドなので、それ自体は珍しくはないんだけど。(でも、今どきのバンドでここまでしっかりとイントロや間奏で尺を取るバンド自体は珍しい)(そのくせ、アウトロはほとんどなしですぱっと終わるのがまた面白い)
間奏は一旦置いといて、注目したいのはその後のサビ。
藤原のキーボードとボーカルだけになる部分のサビである。
最初はキーボードとボーカルだけになってしっとりした展開がされるわけだが、このあと、最初のサビ入りと同じように、時計の音とバスドラムが象徴的に登場するのだ。
この時計の音押しが実に面白いし、楽曲の大事なパートでは常に時計の音が登場するアレンジがもう面白い。
タイアップソングとしての匠を感じさせるアレンジである。
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ボーカルの話
この歌は(というよりも、この歌も、だが)藤原の音域の凄さが際立っている。
Aメロの入りはそこまでkeyが高くないのに、同じAメロ内で、すでにファルセットを使っちゃうという流れ。
メロディーの高低差が激しい。
だってさ、Aメロでいきなりファルセット使ってしまうんだったら、サビの頃にはどうなってしまうんだよ?と思ってしまうのだ。
普通、Aメロよりもサビの方がメロディーは高くなりがちなことを考えると、この歌の主人公の未来よりも、藤原の喉の方が心配になる。
まあ、メロディーの行く末は聴いてもらったわかるとおりなんだけど、この歌ってパートのごとに音域が上がるというよりも、Aメロ・Bメロ・サビ、それぞれで低いところと高いところの差が激しくなっている。
そのため、口ずさみやすいのに、カラオケとかでは歌えないという、そういう摩訶不思議な楽曲になっている。
で。
メロディーの高低差がジョットコースターなような楽曲の末尾に待っているのは、信じられないほど長い長いサビの最後の一音。
最後のフレーズとなる「虹の先へ」の「へ」の部分。
長い。めっちゃ伸びやかに歌う藤原。
普通のボーカルなら、最後にあんなメロディーを歌ったらヘトヘトになるはずなのに、藤原は容赦ないメロディーを自分に用意する。
こんなことしたら、普通は(ライブではちゃんと歌えなくて)再現性に乏しくなるはずなのに、今の髭男ならこれも華麗に再現させるんだろうなーという予感しかないから、末恐ろしい。
あと、ボーカルの話をするならもうひとつあって、サビの「進め」というワードが象徴的だけど、サビの前半は「e」の音を統一して伸ばしている。
これが、また気持ち良い。
「世間体」「イエスタデイ」の部分も「せけんてぇ」と叫んでいて、「e」の音を強調しているし。
というか、この歌って、このメロディーに対しては、この音を伸ばすっていうのが統一的に固まっていて、「o」の音で伸ばされている部分は「o」の音で統一されていて、より藤原の伸びやかな声が印象的になっている。
悪者は僕だけでいい
このフレーズのときだけ、後ろのサウンドが引っ込んでいて、ここだけは何が歌っているのか注目がいくようにアレンジされている。
きっと、このフレーズだけはみんなに聞きとってもらいたかったから、そういうアレンジにしたのかなーなんて思うんだけど、本当にこのフレーズは色んな意味で卑怯だよなーと思う。
しかも、ここのフレーズのときだけ、藤原は泣きそうな声で歌っている。
そこも色々と卑怯だよなーと思う。
で。
気になるのが、この歌詞の真意であり、この歌に出てくる僕と君の関係性なのである。
曲を聞く限りでは、僕と君は恋仲のように感じる。
なのに、2人が一緒になることを選ぶのは、平穏な日々を捨てることを意味すると語られている。
イエスタデイは安穏な日々の象徴であり、そういう日々に「バイバイ」を宣言して「進め」と宣言するわけだけど、一体この2人の関係とは何なのかと素朴に疑問を感じるのだ。
もちろん、映画を踏まえた主題歌だからこういうテイストなのだ!という指摘はあるだろうが、髭男が単なる“フィクションでしか成立しない歌”を書くだろうか、という気持ちもあるのだ。
タイトルが「イエスタデイ」というカタカナな表記なのも気になるし、2人の恋愛を世界は“幼すぎる恋”と表現することにも引っかかりを覚える。
この2人の恋愛は、不倫なのだろうか?
ここから、駆け落ちでもしてしまうのだろうか?
真相は闇の中だが、とある記事で「Pretender」の歌詞を分析している記事があった。
その記事では「Pretender」の歌詞を同性愛的な読み方で分析していたので、もしかしたら「イエスタデイ」もそういう読み方を可能にする歌なのではないか?という想像してしまうのだ。
だってさ、恋愛なんて自由だと言いながら、世間からみて好意的に思われない恋愛なんてたくさんあるわけで。
同性愛や不倫に関わらず、世間が良しとしないマイノリティー側の恋愛はいくつもあるはずなのだ。
そんなことはないと思う人もいるかもしれないけれど、それは往々にして、マジョリティー側の論理である。
マジョリティー側にいると、どうしてもマイノリティー側の苦悩は見えない。
そして、この歌ももしかしたら、髭男だからこそ見える「マイノリティー」に思いを馳せた描き方をしているのではないか?という予感があるのだ。
まとめに替えて
髭男は着々とポップスターへの道を歩んでいる。
10月にリリースするメジャーファーストフルアルバム「Traveler」はきっとものすごく売れると思う(CDセールス的な数字はわからないが、サブスクなどを通じて、たくさんの人に末永く聴かれるアルバムになることは間違いないだろう)
でも、髭男ってちょっと普通のポップスターは違う眼差しを持っている。
いわゆるポップスターは「みんな」に向かって歌い、「大衆」への羨望を強く意識する。
そのため、「みんな」に向かって歌えば歌うほど、どうしてもそこからはみ出すマイノリティーの存在はこぼれ落ちてしまう。
大衆が感動する恋愛ソングを歌うと、そこからはみ出す恋愛をしているものは「いないもの」として扱われることが、ほとんどだ。
でも、髭男はそんなマイノリティーも、きちんと想像の範疇に入れた歌を歌う。
「みんな」とか「大衆」ではなく、バラバラになった「個々」に対して、眼差しを向けるような、そういう類の歌を作る。
それほどまでに広い視野で「みんな」を見ているような気がするのだ。(だからこそ、あれほど謙虚でいることができるのだろうとも思ったりする)
ポップスでそういう想像力を持って歌を歌っているといえば、星野源が頭に浮かんでくるんだけど(「恋」「Family Song」はまさしくマイノリティーに向けて書いた歌なのだから)、髭男も間違いなく同じ想像力のラインで言葉を紡いでいると思う。
こういう想像力を持ち得た曲を書いているからこそ、髭男は令和の音楽シーンで、ダントツの人気を誇るようになったのだと思う。
ポップスでありながらマイノリティーを意識して、「みんな」ではなく、バラバラになった個々に向かって、それぞれの立場の人に、それぞれの然るべき感動が届くような言葉を紡いでいる。
そんな気がするのだ。
そして「イエスタデイ」でも、そんな予感がしたというのがこの話のまとめであり、そんな想像力を持った髭男が、今「アルバム」というパッケージで何を描くことになるのか?
それが、今はただただ楽しみなのだという、そういう話。
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