前置き
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ヨルシカの「エルマ」について書こうと思う。
この作品は「だから僕は音楽を辞めた」の続編として作られた一枚である。
関連記事:ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」のレビューと考察
「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」。
対となるコンセプトを持った2作品を通して、一人の青年と一人の女の子の物語が完結するという仕様になっている。
ただし、このアルバムが少しトリッキーなのは、曲順が物語の時系列通りではないということ。
正しい時系列は初回限定盤を購入することで初めてわかるのだ。
また、初回限定盤にはいわゆる歌詞カードだけでなく、時系列ごとに登場人物がどういう思いを持って、行動したのかがわかる手帳が付いてくる。(というか、歌詞カードが手帳になってるんだけどね)
そのため、楽曲によって生み出された物語を追いたいリスナーは、初回限定版を購入する必要がある。
というわけで、この記事ではその初回限定版を踏まえて作品の感想を書こうと思う。
ぶっちゃけ考察厨みたいなことはしないけれど、多少は「ネタバレ」に踏み込んでしまうかもしれないので、その辺りは注意して読んでもらえたら幸いである。
「エルマ」とはどういう作品なのか?
このアルバムの主人公となるエルマは、前作の主人公であるエイミーからの手紙を受け取ったところから物語が始まる。
で、その手紙を受け取ることで、エルマはエイミーが辿ったルートをなぞるようにして旅を始める。
また、なぞるという構造はアルバム自体にも反映されており、「藍二乗」と「憂一乗」、「八月、某、月灯り」と「夕凪、某、花惑い」など、「エルマ」に収録されている曲はそれぞれ前作と対になっている。
各楽曲がどういうアンサーをしているのかを細かく見ていくことで、エルマという人物像や二人の関係性が浮かび上がるようになっているのだ。
で、手帳のロジックや、この物語の考察をここから書いていこうかなーと最初は思っていたんだけど、ぶっちゃけこの物語の結末自体は「ノーチラス」のMVにきちんと描かれているし、それ以上も以下もないよなーと思ってしまったのだ。
構造だけを端的に言ってしまえば、音楽を辞めたエイミーが残したものを受け継ぐようにして、エルマが再び音楽を始める。
それが、この物語の構造だ。
二枚のアルバムと同じように、なぞるようにして動き始めて、結末だけは違う方へ向かっていく。
そういう流れだ。
前作が音楽を辞めるエイミーの物語なのだとしたら、今作は音楽を辞めていたエルマが再び音楽を始める物語である。
そして、それ以上の登場人物の行動原理を掘り下げても、あんまり意味がないように個人的に思ってしまったのだ。
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個人的にこのアルバムで思ったこと
むしろ、アルバムの物語とか世界観以上に、この作品がすごいなーと思ったのは、この物語の構造のあり方である。
もちろん、このエイミーとエルマの物語って虚構でしかない。
んだけど、その虚構って、限りなく現実に食い込んできているよなーと思ったのだ。
だって、初回限定版の特典である木箱と手帳というギミックが、虚構である二人の物語を現実で再現する一つの表現方法になっているこだ。
しかも極め付けは、この作品をリリースするという構造そのものが虚構を現実化しているというところ。
というのも、この物語の結末は、エイミーが残した作品と歌にエルマが再び息を吹き込み、音楽をつくるというところにある。
つまり、「だから僕は音楽を辞めたんだ」と「エルマ」という二つの作品は、旅を終えたエルマが作った作品集であるという構造を担っているわけだ。
つまり、このアルバムを聴くという行為は、エイミーとエルマの過去の物語を追いかけているとともに、今のエルマと繋がることにもあるわけだ。
つまり、虚構が現実化してしまっているのである。
なぜ、二つのアルバムが女性ボーカルなのかの理由も、なぜ歌詞カードが手書きになのかも、なぜ時系列がバラバラのアルバムになったのかも回収してみせる。
全ては「エルマ」という作品が虚構と現実を繋げたものなのだ。
普通、虚構は虚構、現実は現実という区別を示すが、ヨルシカのこのアルバムでは、どこまでも虚構が現実に食い込んでくるのである。
「エルマ」という物語は一見すると、手帳の最後で終わっているように見えるが、収録されている曲は全て手帳以後の時系列で作られた作品となるわけで、その音には、手帳以後のエルマの姿が描かれていることになるわけである。
なので、極端なことを言えば、「だから僕は音楽は辞めた」でだんだんボーカルが狂ったように感情的に歌うのは、エイミーがいなくなった現実に苦しむからこそこ表現、という捉え方もできるわけだ。
いずれにしても、時系列の構造が他の「物語る」音楽作品のそれとはまったく違うわけだ。
虚構がどこまで現実に関われるか、というアイデアを極限まで高めたという意味で、このアルバムに凄さを感じるのである。
エルマというアルバムの感想のその先
n-bunaはスタンスとして、自分の生い立ちとかバックグラウンドを踏まえたような音楽の聴き方を推奨していない。
作品は作品として閉じたものとして楽しんでほしいと事あるごとに言っているし、ヨルシカが匿名性を維持して作品をリリースしているのは、そういう思想があるからだ。
だからこそ、逆転的に虚構を現実に食い込ませるような、トリッキーなアルバムをリリースできたのだろうなあと思ったりもする。
ところで、今作はそんなヨルシカにしては珍しいことが一つあった。
今作の特設サイトで、一番最後に寄せたコメント。
そこには、このように書かれている。
“この作品を、2019年4月に亡くなった一人のミュージシャンに捧げます。”
作品は作品のままで楽しんでほしいと語るn-bunaが、あえて、リスナーにも見えるところで、発表したこのコメント。
作品を作品のままで聴くことを望むn-bunaが、わざわざ現実に引き戻す恐れがある中で、発表したこのコメント。
ここでいう亡くなったミュージシャンとは、ヒトリエのフロントマンであり(あえてここは現在形で表記したい)、ボカロのシーンに大きな影響を与えたwowakaのことを指していることは間違いない。
おそらく、ボカロ出身の人間でwowakaをリスペクトしていない人間はいないだろうし、n-bunaも間違いなくその一人だった。
wowakaとn-bunaの関係性は、Twitterのリプでも垣間見られることができるからここでは詳細には書かないけれど、wowakaが認めてくれたからこそn-bunaは「音楽を続けた」ことは言葉として表明している。
「だから僕は音楽を辞めた」がリリースされたのは、4月10日。
wowakaがなくなって2日後のことだった。
おそらくwowakaが亡くなる前から「エルマ」の構想はあったとは思う。
けれど、あまりにもこの2作品を通じて語ること、何よりこの作品の結末とも言える「ノーチラス」が、あまりにもwowakaとの物語にシンクロしているように感じてしまうのだ。
皮肉にもwowakaはエイミーと同じように、有り余る才能を武器に、誰よりも早い速度でクリエイターとして日々を生き抜き、そして、一足早くみんなの元から姿を消してしまった。
本当はこういう読み方は邪道だと思うけれど、どうしても僕はwowakaとエイミーを重ねてしまうのだ。
みんなの創作意欲となる<原石>だけを残して、潜水艦に乗って、みんなの居場所から去っていくところを含めて、wowakaに重ねてしまうのだ。
そして、wowakaのあとを追うにして音楽をはじめ、おそらく最初はなぞるように音楽を作り始め、違う結末に向けて歩みを続けるn-bunaにエルマを重ねてしまうのだ。
「ノーチラス」自体は、ヨルシカになって始めた作った歌であるとn-bunaは語っている。
だから、本質的にはwowakaとは関係ない作品ではある。
けれど、虚構が現実に食い込むこの作品が、別の角度で現実に食い込む構造なのもある種の運命のように感じてしまうのだ。
n-bunaというクリエイターの現実と、この二作品の虚構は、複雑な形で混じり合っているように見えてしまうのだ。
おそらく、そういう懸念も十分に想定できる中で、作品は作品のままに閉じたまま受け入れるべきという価値観を持っているはずのn-bunaが、<亡くなったミュージシャンに捧げること>を宣言したのだ。
それだけリスペクトしていたからというのは前提だけど、その言葉も作品を構成する上で重要な言葉のように感じたのだ。
不思議と、どこまでも虚構であるはずのこの物語に、僕は私小説に似た何かを感じてしまったのだ。
まるで、n-bunaが音楽と出会い、人との出会いの中で音楽に対する想いを変えながら、一度はやめようと思った音楽を再びやろうとしているように感じたのだ。
エイミーとエルマの生き様に、n-bunaの奥底にある想いのようなものを、僕は見てしまうのである。
まとめ
まあ、穿ったものの見方は置いておこう。
とにかくこのアルバムが凄いのは、明確な構造の上で作品が作られていることであり、その構造が一つや二つではなく、多重的な階層となっており、複雑な組み合わせをしながら美しく描き切ってみせているところにある。
そして、単に虚構として閉じているのではなく、様々なアプローチにより、それは現実にも侵食しているということだ。
エンタメでありながら芸術のような美しさも感じさせるこの作品。
ヨルシカにしか作れないアルバムだと思う。
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