前説
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「よる」だったり「夜」というワードアーティスト名に忍ばせているアーティストが増えている。
YOASOBIとヨルシカとずっと真夜中でいいのに。。
この辺りを同じラインで並べて語る人が多いのは、きっと全員アーティスト名に「夜」を感じさせるからだと思っている。
ちなみに、この「夜」のアーティストの括りの中で自分が一番好きなのはヨルシカだったりする。
新曲「春泥棒」を聴いて、なおのことその思いが強まった。
なぜ、ヨルシカが好きなのか。
この記事では、そのことを改めて書いてみたいと思う。
本編
世界観の作り込み
どんな歌だって、ある場面なり風景なりを描いているはずだ。
そして、それがその歌の世界観となるわけで、どんな歌にも「世界」はちゃんとあるはずなのだ。
とはいえ、音楽において言葉は副産物みたいなもので、必ずしもそれがメインではないから「世界」の部分がぼやっとしていること多い。
しかし、ヨルシカは違う。
ヨルシカは、どんな歌でも「世界」の描き方が異常に鮮明なのだ。
「春泥棒」でも、そういう要素を強く感じさせる。
この歌って必ずしも登場人物の感情を1からゼロまで吐露している歌ではない。
某「香水」のように思っていることをひたすら言葉にしているような構成ではない。
なのに、ヨルシカの歌の登場人物に、明瞭に感情移入することができる。
なんなら、主人公の映像が立体的に浮かび上がってしまう。
心情はもちろんのこと、映像のイメージまでできるような立体的な世界観が歌の中で構築されているのだ。
それって、なぜか。
理由は複数あるわけだけど、ベースにはn-bunaのワードセンスが神がかり具合があると思う。
例えば、「春泥棒」の歌でいえば、こんなフレーズが出てくる。
高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた
残りはどれだけかな
どれだけ春に会えるだろう
このフレーズの物語的な切り取り方が絶妙だよなーと思うのだ。
だって、このフレーズを耳に入れてしまったら、どういう意味なのだろうと考えさせられてしまうのだから。
なんとなく、このフレーズからは終わりの予感は感じる。
でも、ここでいう終わりとは何なのかまでは判然としない。
だからこそ、ここでいう”終わり”ってなんだろうと考えてしまい、思考がドライブしていく。
そうなると、もうヨルシカの世界の虜になってしまっているわけだ。
あと、花の描き方も絶妙である。
この描写は何かをなぞらえているわけだけど、そこに対しても、なんとなくこうなのかなーという想像をかきたたせるだけで、決定的かつ具体的な言葉は歌の中にはあえて忍ばせていない。
新海誠の映画なんかも、風景と心理描写のシンクロのさせ方が絶妙だったりするけども、ヨルシカの歌にも似たような芸術センスを感じさせるわけだ。
それがすごい。
もっといえば、この「春泥棒」はきっとこの歌だけで完結していなくて、「春泥棒」が収録される『創作』という作品の他の曲ともシンクロしているのだろうと思う。
そこで、余白だった部分にまた違う彩りを与えるのだ。
なんなら音源以外の他のワートアークを参照することで、「「春泥棒」の歌中では不透明になっている諸々がよりリンクするように構成されていくのだと思う。
より複合的に、より立体的に。
ヨルシカの歌は多重に世界を描いていくのである。
なんというか、ヨルシカの歌って想像を喚起させる力と、その想像で生まれた余白をきちんと回収する構成力のふたつの凄さがある。
なので、どちらのタイプの人でも、ヨルシカの音楽って楽しむことができるのだ。
音楽ってこういう可能性もある、というところを提示したところにヨルシカの凄さはあるし、この描き方は他のアーティストには真似できないよなーと感じさせるのである。
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物語的要素を深めるボーカルの存在
自分はヨルシカの世界観を語るうえで、suisの歌声もとても重要だと思っている。
suisはとにかく表現力が素晴らしい。
suisが歌うと、歌の中にいる主人公が本当にそこにいるように感じる。
本当に苦悩したり、泣いたり、笑ったりしているような、そんな錯覚を生み出すのだ。
また、suisの歌声って男性が主人公でも、女性が主人公でも似合う歌声をしている。
中性的というのとはまたちょっと違うけれど、僕という一人称が似合う歌声をしているよなーと思うのだ。
なので、n-bunaの世界を音楽で描くうえで、suisの歌声は絶対不可欠だと強く思う。
n-bunaの世界観にsuisの歌声は似合っているし、suisの歌声を活かすうえでn-bunaの作品性が絶妙なのである。
つくづく思う。
この二人が出会ったことが、すべてだったんだなあ、と。
音楽的な完成度の高さ
ヨルシカの作品って物語的な作り込みの高さで評価される印象だけど、実は音楽面も素晴らしい。
「ノーチラス」は特にメロディーの美しさが素晴らしくて、トリッキーな魅せ方をしなくてもたくさんの人に刺さる歌だと思っている。
言ってしまえば、もっとシンプルに曲だけを立たせるようなあり方でも、ヨルシカの音楽ってたくさんの人に届いていたと思うのだ。
でも、それはひとつの要素に過ぎないレベルにまで、他の要素を極めているからこそ、ヨルシカって凄いんだよなーという話だったりする。
というか、音楽作品としてどれも素晴らしいからこそ、アルバム単位になっても一切飽きずに、どんどん世界観にのめりこんでいってしまうと言ってもいいのかもしれない。
<捨て曲>なんて概念、ヨルシカにおいては絶対にありえないもんなあ。
<捨てる部分がない>からこそ、作品という単位、物語という単位で、ヨルシカの音楽を愛せてしまうのだと思う。
つくづく恐ろしいユニットだよなあと思う。
まとめ
あと、ヨルシカの作品って、自分たちが作った過去の作品ともシンクロしているし、なんならn-bunaの作家性そのものを感じさせる部分もある。
匿名的であり、余計な情報は与えないヨルシカだけど、ふいにアーティストの核みたいなものを作品で魅せる瞬間があって、そういうものに触れるとさらにドキドキしたりするのだ。
いやー『創作」のリリースが楽しみだなーと思う。
2021年のヨルシカも、きっととんでもない作品を生み出すのだと思う。
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