前説
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最近、YOASOBIが人気になっていることもあって、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。、YOASOBIを並べて語られることが多い気がする。
いや、それはお前だけだよ、っていう人もいるかもだけど。
まあ、少なくとも自分はこの三組に似たものを感じるわけだ。
それは女性ボーカルだったり、アニメのMVが主体だったり、ネット発はイメージで存在感を強めたり、匿名性を維持した活動を行っていたりと、そういう要素から言えると思うんだけど、一方で別に似たなくない?と思う部分もあるわけで。
というわけで、この記事では三組の違いというか、ずば抜けている特徴の着目した記事を書いてみたい。
本編
ヨルシカ
ヨルシカの歌はとにかく情景が頭に浮かぶ。
物語調の歌詞で描写を丁寧に行うからというのもあるし、絵を想像する余白が歌にはあるからそう思うのだ。
あと、suisの歌声は女性視点の歌にも、少年や青年が主人公にハマるのである。
別に中性的な声ってわけではないんだけど、男主人公の心情にもぴったりとハマるのだ。
だからこそ、楽曲の中にある景色がより解像度が高く、蘇るのかなーと僕なんかは思うのである。
あと、「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」の二作品の、音楽作品を超えた物語としての完成度の高さが、よりヨルシカのストリテラーとしての才能を世に知らしめたイメージがある。
だって、あんな作品、他のアーティストじゃそう真似できないもんなあ。
アルバムとしての完成度の高さはさることながら、一曲一曲の中毒性も高いというのがあのアルバムの凄さであり、2019年を代表する名盤だったと今でも思うのである。
関連記事:ヨルシカ「エルマ」における感想と考察
ずっと真夜中でいいのに。
ヨルシカの楽曲って比較的邦ロック成分が強いように思うのだ。
もちろん、いわゆるロックなアレンジの歌じゃない歌もあるんだけど、ベースにあるのが邦ロックの延長線上にあるボカロの文脈に組み込まれる気がする。
それに対して、ずとまよは比較的速い段階で邦ロック以外の文脈、具体的に言えばダンス・ミュージックやトラップ的なビートを取り入れていたりと、わりと海外サウンドのトレンドにも目配せているアレンジを攻めている気がするのだ。
少なくとも、正しい偽りからの起床」と「今は今で誓いは笑みで」は相当にサウンドの意匠が大きく変わっていることは理解できると思う。
つまり、ジャンルにこだわらず、様々な音楽を昇華する貪欲さこそがずとまよの魅力であると言えると思うのだ。
というよりも、あまりこういう立ち位置の人たちが取り入れなかったサウンドも取り込み、きっちりそういう音楽を支持する人たちにもウケるものを作る職人気質のようなものを僕はずとまよから感じるのである。
その中でも歌詞に対する鋭い眼差しは通底しているものがある。
音楽だけは様々な変化をみせるが、言葉選びであったり、MVのテイストには一貫性をもたせるというところも、巧みだなーと思う。
ここのコンセプトがしっかりしているからこそ、色んな試みを行っても散らかった印象を与えていないからだ。
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YOASOBI
ヨルシカとずとまよが圧倒的な人気を博した中で、きっちり存在感を示したYOASOBI。
個人的に最近のYOASOBIは、明確にダンストラック的な意識を感じる。
ヨルシカのサウンドはどちらかというと、本物のバンドサウンドっぽさを感じるのだとしたら、YOASOBIは徹底的に打ち込み的なサウンドを感じるのだ。
そのため、音のバランスも両者と違っていて、言ってしまえば低音がぶりっとしている印象を与えるのだ。
「演奏的」というよりも、「トラック的」とでも言えばいいだろうか。
そしてこのトラック的なサウンドがikuraの声には似合うのである。
suisは弾き語りだとしても十分に語りすぎる表現力がある。
それに対してikuraの歌声は比較的淡々としている。
それ故、語り部としての性質が肌にあっており、故にサウンドも起伏が激しいものよりも作り込まれているものがフィットする、というイメージなのである。
ヨルシカがバンド的なのだとしたら、YOASOBIはよりボカロ的、とでも言えばいいだろうか。
自分には、そういう違いを感じるのである。
まとめ
一聴だけだと同じジャンルのように聴こえる音楽も、聴き込めば聴き込むほどその違いって見えてくるものだ。
この三組もそれは同じである。
同列に語ることも可能だが、じっくり聴けば聴くほどその違いは鮮明に見えてくる。
自分の感じたことが的を射ているかはともかく、三者三様の個性があることは間違いない。
改めてそれぞれの楽曲を聴き込んで、それぞれの楽曲から感じたものを言葉にすると面白いかもしれない。
そんなことをふと思うのである。
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