前説

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僕はアルバムという単位ならではの見せ方、描き方ができているなーと感じる作品に強い魅力を感じる。

ここでいう「アルバムだからこそ描けるもの」というのは、複数の曲を一つの作品としてまとめている意味が見出せて、歌詞、サウンド、アートワークなどが有機的に結びつき、そのアルバムでしか感じられない「何か」が体験できるもの、と定義しておく。

ヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」も、そういう類のアルバムだった。

このアルバムは、音楽を辞めることにした青年が君という”エルマ”へ向けて作った楽曲、全14曲を収録したものである。

また、初回限定版では、旅に出た青年がエルマへ向けて書き溜めた手紙や歌詞、訪れた街の写真などを納めた木箱を再現したボックスが付属しており、音楽を辞めるに至った青年の物語をリスナーが楽曲とともに体験できる仕様となっている。

で、この「体験」に、僕もガツンとやられたわけです。

というわけで、この記事では、あまりヨルシカの作品を聴かない人にもこの作品の魅力を伝えつつも、僕なりにこのアルバムの解釈と考察を提示してみたいと思う。

※以降の文章で出てくる「僕」は全て、アルバムの歌詞に出てくる「僕」を指しています。ややこしくなるかと思うので、念のため。

あと、ちょくちょく出てくるエルマというのは、歌詞中に出てくる君を指します。念のため。

本編

この作品の魅力って何?

先ほども述べたが、この作品はアルバムひとつで一つの物語を語る構成になっているとともに、ヨルシカのコンポーザーであるn-bunaの哲学や芸術性も堪能できる作品となっている。

エンターテイメント的な作品であるとともに、作り手の美学を感じることもできるわけだ。

これがすごく良い。

多重的に作品の魅力を感じ、聴けば聴くほど発見がある作品なので、アルバムを一周聴いただけでは飽き足らず、何回も聴きたくなってしまう。

また、収録されている一曲一曲がすごくキャッチーで聴きやすく、ピアノとギターのバランス、スネアの音の響かせ方、クールながらも時より殺気迫るボーカルを披露するsuisの歌声含め、全てが素晴らしいのである。

要はアルバムに収録されている一つ一つの楽曲のクオリティーが高いのに、その一曲一曲がアルバムという単位で「繋げられる」ことで、それ以上の魅力を引き出していく。

一曲単位でも十分に素晴らしいのに、アルバム単位になることで、それ以上の魅力を放つものになり、作り手の美学がはっきり見えるのだ。

そういう意味では、昨年リリースされた三浦大知の「球体」に似たようなものを感じる。

まあ、「球体」と「だから僕は音楽を辞めた」では作品の毛色が違いすぎるし、両方を好んで聴く音楽好きなんて、そうはいない気もするけども。

でも、音楽ジャンルとしての方向性や好き嫌いは置いといて、「球体」みたいな、僕と君の果てないストーリーにワクワクを覚えた方は、ぜひヨルシカのこのアルバムも聴いてみて欲しいし、ヨルシカのアルバムを聴いて「コンセプトが本気で練られたアルバムってワクワクするよなあ」と感じた方は、ぜひ三浦大知の「球体」も聴いて欲しいなーなんて思う。(音楽を聴くきっかけなんてそんなもんでいいと思う)

御託はこれくらいにして、早速、ヨルシカのアルバムの考察をはじめてみたいと思う。

時系列に並べられない曲たち

このアルバムを聴いて、歌詞をある程度読み込んだら、この歌に出てくる僕と君は(恐らくは)全て同じ人物であり、君に対する僕の気持ちの変化が物語の焦点となっているんだろうなーということがわかる。

けれど、このアルバムが面白いのは、単純にアルバム順に曲を聴いても、すぐには一つの物語として繋がらないところだ。

この曲たちは、時系列通りには並べられていないのである。

物語調のアルバム自体は今までにもあったと思うが、ここまで時系列をバラバラにして収録したアルバムは、過去の他のアーティストの作品でも、あまりなかったように思う。

ちなみに、曲順が時系列に並べられていない理由は、このアルバムは「青年がエルマへ向けて書き溜めた手紙や訪れた街の写真などを納めた」という設定をより忠実に再現するためであり、この並びは青年が木箱の中に手紙を並べた順番であり、青年がエルマに「この曲順で聴いて欲しい」という想いが込められているからとのこと。

そのため、このアルバムに描かれている物語を正確に捉え、正しい時系列をたどるには、どういう曲順で聴く必要があるのかを考え、改めて組み立て直す必要があるのだ。

さて、曲順を整理していく上でポイントとなるのは、インストになる4つの楽曲である。

ご丁寧にも、インスト楽曲は全て、日付がタイトルになっているのだ。

「8/31」と「7/13」と「5/6」と「4/10」。

穿った見方をしなければ、このアルバムは4月から8月という時間を辿る構成となっている。(実を言うと、これは少しミスリードな書き方になるのだが、それは後ほど記述する)

インストのこの楽曲に限らず、他の楽曲も4月から8月にかけての時間を辿れる曲が多く、「五月は花緑青の窓辺から」「六月は雨上がりの街を書く」「八月、某、月明かり」といった楽曲には、タイトルに月日を示す言葉が入っている。

その数ヶ月で、僕が君に対して、あるいは音楽に対して、どういう気持ちの変化をさせていったのかが描写され、最終的に、なぜ僕が音楽を止めたのかの結末が提示される。

時系列に曲を並べていく

このアルバムの最後の曲である「だから僕は音楽を辞めた」が、この作品の一つの結末であることは間違いない。

他の歌の歌詞を読んでもわかるが、この歌の主人公である僕は、音楽を辞めることにしたことだけはわかるから。

それだけが絶対的な事実としてあって、それはなぜか?を掘り下げるのが、この歌の物語のベースとなるように思う。

また、月日が入っているタイトルの歌は全て時系列逆で並べられていること、前半の歌の歌詞ほど僕が狂っているものが多いことから、なんとなくこのアルバムは時系列が逆に提示されているのではないかと感じてくる。

確かに「エルマ」や「パレード」では、エルマを失ってしまった僕の切ない気持ちを描きつつも、だからこそエルマのことを大切に思う気持ちや、僕がどれほどエルマのことを想っているのかが丁寧に描かれているように感じる。歌の雰囲気もなんとなく春っぽいし。

「八月、某、月明かり」や「詩書きとコーヒー」を聴くと、主人公が壊れていくサマが描かれているように感じるし、季節も夏の終わり感が強いように感じる。

では、一旦、「4/10」を起点としてそこからアルバムを逆順していき、最後は「8/31」→「だから僕は音楽を辞めた」で終わる物語と想定して、考察を進めてみよう。

ただ、ここで気になるのは「だから僕は音楽を辞めた」のワンフレーズである。

辞めたはずのピアノ、机を弾く癖が抜けない

この歌を聴くと、僕はエルマと出会う前に一度音楽を辞めていて、君と出会ったから再度音楽を始めたように感じるのだ。(あるいは、君だけが音楽をやっていたけれど、君を失ってから、君の作業を受け継ぐように僕が再度、音楽を始めたようにも捉えられる)。

「パレード」では、<君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる>というフレーズがあることから、ピアニストあるいはギタリストとしても、僕は君のことを一目置いていたことが想像できるし、歌詞を読んでいくと、僕の歌詞は君の模倣でしかないことを匂わせるフレーズがいくつも出てくる。

逆に言えば、僕は才能がなかったから一度は音楽を辞めたのだろうし、君を失ってから作りはじめた自分の音楽が、君を超えることのできない模造品でしかないことに苦悩している姿も見て取ることができる。

それにしても、「八月、某、月明かり」や「踊ろうぜ」を聴くと、リフレインされるフレーズ、連呼される単語、基本的にはクールなはずなのに、時よりとんでもなく切迫した歌声で歌ってみせるsuisの声が、ぐさりと胸を突き刺してくる。

いや、ほんと、このアルバムは曲ごとの歌詞の「つながり方」も面白いのだが、それ以外の全ての要素も研ぎ澄まされているのだ。

だからこそ、作品世界にどんどん入り込んでしまうし、まるで自分がこの歌の登場人物なのではないか?という気分にすらなってしまい、とても悲しい気持ちになってしまう。

それが、この作品の凄いところである。

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なぜ、君はいなくなったのか?

この部分を推測するのは、このアルバムを聴く上で少し野暮かもしれない。

が、思ってしまうのだ。

なぜ君は僕の元からいなくなったのだろうか?と

「踊ろうぜ」の<灰になったから>というフレーズや、「八月、某、月明かり」の<あの世ではロックンロールが流れてるんだ>というフレーズから、どこか死の匂いを感じ取り、もしかしたら君は天国にいる側なのではないか?そんな想像が脳裏をかすめる。

でも、その一方で、その解釈はなんか腑に落ちない自分がいた。

だってさ、僕に対する君への想いをクドイくらいに歌にしているけれど、不思議と君と僕のエピソードが言葉にされることは、ほとんどないのだ。

歌というのは、そういうものかもしれないけれど、この歌たちが僕から君に当てた手紙なのだとしたら、少し独り善がりな気がするし、狂ってしまうことをここまで赤裸々に歌にしてしまうことには不気味さすら覚えてしまう。

メンヘラが寂しすぎて、本人の前でリストカットして「死ぬ死ぬアピール」するような危うさを感じてしまう。(まあ、こういう感じ取り方をしてしまう僕が歪んでいるだけかもしれないが)

だって、君がいなくなった僕はこんなにもひどい気持ちになったよ、という言葉が永遠と羅列されているのだ。それを見て、君は何を思えばいいの?という話である。死別した相手に対して届ける言葉だとしたら、なおのことそう思う。

いや、そんなことをしたら、このアルバムの世界観が崩れちゃうでしょ、このアルバムはなぜ音楽を辞めたのかが焦点なんだからこうなっただけでしょと言われたら、そうなんだけど、としか言えないんだけど、考察厨として考えると、うーむと思ってしまう。

「藍二乗」というタイトルの歌が冒頭にあるけれど、この歌のタイトルの意味は「六月は雨上がりの街を書く」の歌でも種明かしされるように、君がいなくなった生活を示す言葉になっている。

のっけから、こんなひねくれた形で君がいなくなってしまった孤独を見せつけているのだとしたら、そこに宿る感情はもっとドロドロしたものではないかと思ってしまうのだ。

僕に宿る君への感情は、愛よりも、憎しみに近い感情なのではないか?と。

だから、思うのだ。

この「別れ」は、君の方から一方的に切り出したものであり、僕は最後までそれを拒んでいた。

だけど、僕に飽きられてしまった君は、そうこうしている間に僕の元から去ってしまったのではないか?と。

そして、僕はそれを受けれ入れられず、果てにこんな手紙をしたためるに行ったのではないか、と。

螺旋のようにループするように感じる物語

また、個人的にこのアルバムを聴いて思ったのは、音楽を辞めた僕が君に出会ってまた音楽をはじめ、君を失い苦しむ過程の中で、また音楽をやめてしまう物語なんだなーということ。

何が言いたいかというと、この物語の構造としてあるのは、ループの構造なのではないかなーと思ったのだ。

「まどか☆マギカ」なんかでもよくある、ループの構造。

このアルバムでも、そういうループの構造を感じ取ったのだ。

このアルバムの結末は「だから音楽をやめた」である一方で、このアルバムの始まりもまた「だから音楽をやめた」だったんだろうなーということだ。

もっと言えば、やがて、この僕が再びエルマではない君(つまり、別の女の子)と出会い、再び僕は音楽を始めることになり、また同じような結末を迎えるのではないか?

そんな円環の理すら想起してしまった。

外国に旅をしているはずなのに、歌詞にはバイトをやめたとか日本の地名が出てくるとか、どこか時空がゆがんでいる感じがするのも、どこかパラレルな匂いを感じさせる曲構成にわざとしているのも、ループ構造の匂いを感じさせたいからではないか?と勝手に思ったりしたのだ。

もしかしたら、ここに出てくる全ての君は必ずしも「エルマ」一人ではなく、どこかのタイミングで違う君が出てきている可能性すらあるではないか?そんなことすら考えてしまう。

だからこそ、「踊ろうぜ」を境目にして僕は大きく壊れるし、もしかしたらエルマではない君と踊ってしまったから、「詩書きとコーヒー」では<君はもういらない>と言い、「八月、某、月明かり」では<何もいらない>とまで言ってしまうのではないか。

いつの間にか複数の君が出てきてしまうから、最後の歌となる「だから僕は音楽を辞めた」では、君という二人称だけでなく、あんたという二人称も出てくるのではないか?(「あんた」という二人称に誰を代入するのかは、聴き手の想像力の問題だとは思うけれども)そんなことすら考えてしまうのだ。

手紙の話

とここまでの文章は、実は初回限定版にある手紙を読む前の想像だったんだけど、実はこの手紙を読むことで、僕はいくつか思い違いをしていたことを知ってしまう。

※ここからある種、ネタバレ的な要素も含むのでは、注意してお読みください。

まず、曲順と時系列の話。

冒頭の区切り方は間違いだ。

まず、「4/10」の歌がこのアルバムの始まりではないことが明らかにされる。

手紙の始まりは3月14日。

また、物語を語る手紙の最初には、去年の8月の話がされるのだが、その時には、すでに君は僕の元にいない(と思われる)ことも明かされる。

3月は、まだ僕は自分の部屋の六畳間にいることがわかることが手紙から明かされる。

だから、「4/10」のインストには、足音が入っているのだ。

家を出て、旅の出始めたのは、ここからだからということを示すためだろう。(実際、旅はこの日に始まることが手紙で明かされる)

全ての曲の歌詞カードには日付が書かれていて、その日付通りに聴くことが正しい時系列ということになる。

この手紙には歌詞カードだけでなく、時間軸に合わせて僕が何を思っていたのかが言葉として書かれているため、なぜこんなことを書いていたのか、ということを含め、なんとなく僕の気持ちが想像できるようになる。

時系列をたどっていくと、8/25に「だから僕は音楽を辞めた」が書かれたことがわかる。

そして、「8/31」のインストに繋がるわけだけど、実はこの曲がアルバムの最後を迎える曲ではないことが明かされる。

実は、エルマの本当に伝えたかった歌は別にあったのだ。

じゃあ、僕が最後に作った歌は何なのか?

それが、最後から3番目の曲となる「エルマ」なのだ。

音楽は芸術だと言い切って見せた僕は、結局、どれだけ歌を作っても君の模造品しか作ることができなかった。

そんな僕が、本当の意味で、自分の言葉で、君への気持ちを書いた歌・・・それが「エルマ」なのではないかと思う。

数カ月に渡る、自問自答の旅の終わりに書いた歌が「エルマ」であり、この旅の結論そのものでもあるわけだ。

もしかしたら、この歌の歌詞をじっくり読んでみても、いまいち何が伝えたいのか、ピンとこないかもしれない。

けれど、この歌に続く僕の気持ちをしたためた手紙が2枚あって、それを読めば、なんとなくではあるけれど、僕の気持ちが伝わってきたのだ。

時系列的に一番最後となる手紙は、なぜかインクが滲んでいて、水滴のような跡がいくつかも付いていた。

君への想いを綴った最後の手紙には、あれだけ感情を憎んでいたはずの僕が、ひどく無様に感情を吐露していたのだ。

音楽しかないと言っていたはずの僕が見せた感情が、君へのはっきりとした想いが、その歌詞カードには刻まれていた。

文章そのもの以上に、その水滴のような跡を見て、僕は強くそれを感じた。

これは、もしかしたら本物の手紙を見た人にしか、わからないことかもしれない。

けれど、これだけは言わせてほしい。

その手紙には言葉以上の僕の本音があって、音楽作品であるはずなのに、歌詞でもなく、メロディーでもなく、ボーカルの歌声やサウンドでもなく、その歌詞カードの、そのデザイン(こうしか言いようがない)をみて、鳥肌が立っている僕がいたのだ。

こんな体験をしたのは、この作品が初めてだったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まとめ

その手紙を見てからは、これ以上<考察>するのはなんだかなーという気持ちになったので、物語についての憶測はこれでやめにすることにする。

何となく野暮な気もしたので、あえて正しい時系列に並べた曲順に関しては載せることもしないでおく。

一つだけ確かなのは、このアルバムには別に「正解」なんてないということだ。

きっと聴き手の数だけこのアルバムから物語を紡ぐのだろうし、たとえそれがどれだけ空論な想像だとしても、それはそれで<正しい>考察なのだということ。

芸術には捉え方の指針こそあれど、<正解>は別にない。

もしこの作品がエンタメに全振りで舵をきっていたものなら、例えばミステリー小説みたいなものなら、そこに<正しい答え>が用意されていただろう。

けれど、この作品はそういう類のものではないのだから。

様々な想像ができて、色んな角度から楽しむことができるこのアルバムはシンプルに名作だと思うし、この記事ではきちんと言葉にしていないだけで、もっと結びつけてみたり、語ってみたいトピックだってある。

ただ、ここで全て済ませてしまうのは野暮なので、この記事としてはこれくらいにしたいなーと思うのだ。

最後に言いたいのは、このアルバムは聴きどころがたくさんあるということ。

だから、聴いていない人は騙されたと思ってこのアルバム世界を堪能して欲しいなーと思うし、もし既にあなたがこのアルバムを聴いているのならば、この記事がこのアルバムをより深く聴くための何かの足しになったらいいなーなんて、それだけを思う。

関連記事:ヨルシカ「エルマ」における感想と考察

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