なんか米津玄師は褒めとけばいいんでしょ?って空気半端ないでしょ?

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いや、わかるよ。わかる。

確かに米津玄師の曲は名曲が多い。

名曲と言い方は具合が悪いとすれば、米津玄師っぽい音作りのアーティストは、正直いないよなーと思う。

ポップスなのにマニアック。

これを両立できている、数少ないアーティストの一人だと思う。

そんななかでの「Flamingo」。

いや、良い歌だと思うよ?米津玄師ならではの歌だとは思うよ?

けれど、ポップスとマニアックのバランス感覚が米津玄師の持ち味と考えた時、若干マニアックのバランス強くない?って正直思った。

この歌もYoutubeで死ぬほど再生されているけれど、あの歌は明らかに「Lemon」の貯金があったから聴かれているだけで、内心は「う〜〜〜〜ん」と思っているリスナーだっているんじゃないかって思ったわけだ。

だけど、米津玄師の曲は褒めとけばいけるっしょ?って空気が蔓延しているし、なんかよくわからん感じの音に対しても、とりあえず「これが最先端」とか「新時代の突入」とか言っておけばいいって雰囲気があるから、言葉を濁した褒め言葉ばかりが踊っているように感じた。

そこに関して、もう少し突っ込んで考えたいわけだ。

最初の印象

初聴きしたときは、マジで元ネタ、これだと思いました。

マジで若干ではあるけれど、似てなくないですか?雰囲気?僕は最初のイントロで、マジでこのOPが浮かんだんですけど。

少なくとも、ビート感とか、やたら声ネタが多いところとか、そういう着想はこのドンキーコングのゲームのOPから来てるって思ってました。

「ピースサイン」の着想のひとつに、デジモンのOPだった「Butter-Fly」を挙げた米津玄師である。

米津玄師は自分とも年が近いので宣言するが、任天堂のゲームなら絶対に64世代だと思うのだ。であれば、64のゲームならドンキーコングもやっているし、影響を受けているはず。

だから、僕の最初の印象としては、ドンキーコングOPにファンク要素を足したら踊れる感じになったから、ついでにフラミンゴっぽり振り付けも付けてみました。そんなテンションの、そんな作品だと思っていた。

まあ、よく聴けば、それは違うなーってなっていくんだけどね。

少し前置き

最近の米津玄師の作品って、タイアップありきなものが多い。

「打上花火」も「Lemon」もタイアップを意識しながら、自分の個性をどう出していくか?そんな意識で作っているフシがあった。

だから、タイアップとしての大衆性と自分の作家性のバランスを上手に取りながら、個性ある作品を生み出している、という感じがあった。

しかし、今作はタイアップなしで自由に作って良いというなかで製作したと本人が語っている(結果的にCMのタイアップが付いているが、これは後付けのタイアップのようである)

そのため、米津の今作は、近年の作品とバランスの取り方が違うわけだ。

少なくとも「タイアップ先がどうとか」「タイアップすることによる大衆性」とか、そんな意識はされていない。

また、前作2曲のアレンジはアゲハスプリングスの人が大きく噛んでいるが、今作は見た感じアゲハの人は関わっていない気がするので、(この辺はちゃんと調べていないので、間違っていたらごめんなさい)より米津玄師個人の音作りが明確に反映された作品になっているように感じる。

そういう諸々の状況からみても、いつもとは違うバランスの取り方になっている。

今作は初期っぽいって言う人もいるが、初期の頃の米津らしさがあるのは、この辺が大きな理由だと思う。

ポイントなのは、いつもとバランスの取り方が変わっているというところ。

今作のバランスの取り方は本当に絶妙というか、前衛的というか、そういう面白さがある。

音の話

まず、最初のイントロはファンクっぽいムードで始まる。ちょっとダディーというか、少し怪しい感じがするというか。そんな装いの始まり。

けれど、イントロが終わり、米津の歌が入ると同時に、民謡楽器感のあるギターが入り、急に全体的な雰囲気が変わってくる。米津玄師の歌い方も民謡的なものに寄せてきているし、そういう色合いはより濃いものになる。

ファンクを洋っぽいイメージとして捉えるならば、Aメロに入ると、途端に民謡的な、和っぽいイメージが強くなるのだ。

このバランス感がポイントである。

また、Aメロは民謡的な要素を強くするため、歌の譜割りをあまり連続しておらず、ワンフレーズ歌うと休符、ワンフレーズ歌うと休符、って流れになっている。

そして、この部分は5音で構成されており、演歌や民謡で多用されるニロ抜き音階に近い状態で展開されている。

これにより、より和のイメージ、民謡感みたいなものを色濃く打ち出しているのだ。

様々な部分で民謡的な要素をふんだんに盛り込んでいるのに、土台のサウンドはファンク的。

この歪な洋と和のバランスが絶妙で、不思議な違和感を成立させているから「なんだこれ?聴いたことない感じ!新しい!!名作!!やっぱり米津玄師、天才!!!」ってなるのだと思う。

やたらと主張の激しい声ネタもポイントで。

ボイパ感がすごくあるし、ヒップホップのサンプリング感もすごくある今作の声ネタ。

構築されているサウンドのカオス化を、より推し進める要素となっている。

声そのものを楽器的というか、リズムのアクセントとして容赦なくぶち込めるのは、楽器をボーカルとして扱うボカロ畑出身の米津玄師ならではのセンスなのだろうなあと思う。

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メロと対比させたサビが良い

この歌がより印象深くしているのはサビの存在感だと思う。

サビはきっちりとポップスで、印象の強いメロディーをバチっと持ってきているから、メロまでは違和感を持っている人も、最終的には「良い!!」って感じるのだと思う。

Aメロの変態的なサウンドと、メロ強めのポップなサビ。そして、その二つを上手に繋ぐBメロ。

このバランスが秀逸だからこそ、違和感を覚えるのに不愉快さは感じないという不思議な構成、バランスを成立させているのである。

サビ中はきちんと声ネタを封印して、米津玄師のボーカルが大きく真ん中で聴こえるように音のバランスが調整されている。

サビの間は、ボーカル周りの音じゃなくて、きちんとメロディーと米津玄師の声を聴いてほしいっていう誘導があるように感じる。

それこそ「Lemon」もメロ部分の「くえっ!」という声のサンプリングが話題になったが、あの曲が広い層に支持された大きな理由は「くえっ!」よりも、サビのメロディーの印象深さだと思うのだ。

というより、サビのメロがしっかりしているから「くえっ!」も活きているというか。

今作でも同じことで、メロ部分は実験的というか、米津の声以上にサウンドメイキングに意識が向かう構成をしているが、サビではしっかりとメロディー(だけ)を魅せる。

このバランス感覚が優れているから、米津玄師の歌は変態的なのにポップと感じられるし、その結果、マニアックな音楽リスナーから、一般的なポップス好きまで、幅広く満足させる仕上がりになっているのだと思う。

面白いのは、2番のサビ終わりのCメロで、再びかなり民謡感を強く出してくるところ。

楽曲のクライマックスに近づくタイミングで、沖縄民謡感のある歌い方、節回しを包み隠さず披露してくる米津玄師。

徹底的にサビとそれ以外の魅せ方を分けてしまうことで、独特のバランス感覚の最後まで継続させる。結果、多くのリスナーを魅了させるのだ。すごい。

今まではタイアップと自分の作家性でバランスを取っていた米津は、今作では今までと違うベクトル・要素でバランスを取っている。

そのバランス感が絶妙だからこそ、程よい違和感を覚えるし、その違和感がちょうど良いフックになっているから、何度もその曲を聴きたくなるのだ。

あと、声ネタの部分もそうだけど、打楽器の打ち込みもサビのギターのフレーズも、かなり細かいパターンで切り貼りされている。

良い意味で切り貼り感があって、そこのセンスに現代ヒップホップ感を見出すこともできる。

そもそも、声ネタがヒップホップ的なセンスだったりするわけで、要はファンク〜民謡〜ヒップホップなど様々な音楽要素を横断することで、今までに出会ったことないような、新境地感のある所に楽曲を持っていっているから、一番最初で述べた「これが最先端」とか「新時代の突入」みたいな評価を生むのかなーと思う。

まあ、結局のところ、米津のセンスがエグいっていう話になるんだけどね。

だって普通、ここまでごちゃ混ぜなサウンドにしたら「あー重たい〜しんどい〜」ってなると思うのだ。

少なくとも、聴いていて気持ちの良いものにはならないはず。

なのに、米津玄師はちゃんと気持ちの良い所に持っていく。良い感じの塩梅でまとめあげる。

そのセンスが何よりもすごいのだ。

もちろん、そういうごちゃ混ぜなサウンドを泳ぎ切る、米津玄師の歌声があってこそ成立するものではあるんだけど。

初期の楽曲っぽい雰囲気はあるんだけど、その時と比べて大きく違うのは、ボーカルとしての米津玄師の質だと思う。

本当に、米津の歌声の表情は豊かになった。

だからこそ、サビはより締まるというか、メロディーの良さが際立つわけだ。

マニアックな音作りをしても、どんどん聴き進められる音楽になる最大の要因なのである。

まとめ

こういうタイプの歌ですら、しっかりと売れるし話題になることが証明されたら、本当の意味で、米津玄師の向こうところ敵なし感がすごくある。

90年代のポップスが小室哲哉や小林武史サウンドなのだとしたら、10年代のポップスサウンドは米津玄師となる。

こう答えても語弊がないところまできたのではないだろうか?

そして、米津玄師がやりたい放題にやればやるほど、ポップスとはこうあるべきという概念が崩れるわけで、よりポップスは自由になるんだろうなーと思う。

いやーマジでワクワクするとともに、末恐ろしいなーと。そんなことを思ったりする次第。

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