アーティストと作品を切り分けるべきか、について

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最近、このテーマが話題に登ることがある。

なぜそれが話題になっているのか、についてはこの記事では割愛する。

ただ特定のトピックに限らずとも、この問題は事あるごとに語られているイメージがある。

改めて、思う。

アーティストと作品は切り分けて考えるべきなのか、と。

ここで、個人的な意見を申すならば。

自分は<べき>かどうかは置いといて、それは作品によってそもそも異なるよなーというのがあって。

言ってしまえば、完全にアーティストのことを無視して接することができる距離感の作品もある。

あるいは、まったくそれができない作品もあるよなーというのが自分の感じ方で。

まあ、多くの作品がすぐに後者に移行する(なぜなら、アーティストのことをどんどん知ってしまうから)というのはあるのかなーとは思うけども。

そうなのだ。

作品を通じて、そのアーティストの<作家性>みたいなものに関心を持ったアーティストの場合、どうしても作品<だけ>を純粋に接することは難しくなるかなーというのが自分の感覚なのである。

だから、アーティストと作品を切り分けて考えるべきかどうかという以前に、それはもう難しいという他ないよなーと思うわけである。

まあ、自分はネガティブなニュースが出てしまったことで、そのアーティストの音楽が聴けなくなった・・・というレベルの反動を経験したことがない。

聴くことそのものが憚れる・・・というほどの影響を受けたこともない(そもそも自分が好んで聴く音楽において、そういう事例がないからというのもある)。

けれど。

アーティストの音楽以外のニュースが(良いことにせよ悪いことにせよ)アーティストの音楽の聴こえ方に影響を与えることは、確かにあった。

ヨルシカのような、ある程度は匿名性を担保しているようなアーティストですら、そのアーティストだからこその物語を知らず識らずに摂取し、受け止める音楽に影響を与えているのだから。

なので、そもそも分けるべきかどうかという以前に、そんなの無理だよなーなんて自分は思ってしまうのだ。

だって、アーティストの情報が頭に入ってしまったら、どうしたって影響を与えてしまうのだから。

アーティストが持つ物語が、作品に影響を与えてしまうのだから。

そこまで考えると、無理にアーティストと作品を切り分ける必要はないのかなーと思う。

もちろん、そこにどういう線引きを敷くのかは個人によるとは思う。

でも、少なくとも分けて考えねば・・・と無理をすることはないのかなーとは思ってしまうわけだ。

影響を受けてしまうなら受けてしまうで受け止めるしかないよなーという話なのかなーと思うわけである「。

もちろん、まったくそういうことが気にならないアーティストの音楽であれば、何の問題はないと思うけどね。

ただ、事実として、こういうのって理性でどうにかなる類の問題ではないのだから、どうしようもない。

逆に言えば。

そのアーティストの<嫌なニュース>が話題になっても、その音楽に惹かれてしまうという感覚もまた、生じてしまったのだとしたら、その感覚自体は大切にしたらいいのではないか、そんなことを思うわけだ。

オチは、ない。

でも、切り分けるべきかどうかという話以前に、誰だって多かれ少なかれアーティストの存在は作品の聴こえ方に影響を与えている。

そんなふうに思うわけである。

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