前説~本編

良い音楽を聴いたら、きっとたくさんの人が絶賛するはず。

その考えって半分は正しいけれど、半分は間違っていると思っている。

届く数が増えると、どうしてもその作品のことを肯定的にみない人も増えるからだ。

YouTubeの動画なんかを観ていても、絶対に低評価が付いている。

この作品のどこに低評価の余地があるねんって作品にも低評価が付いていたりする。

まあ、その低評価が「ノリ」なのか「心からの判断」なのかは、わからないけれど、実態としてどんな名作だって全員に刺さることはないのは確かだと思う。

でも、それは悲しむべきことではない。

それだけたくさんの感性があるということなのだから。

倫理観に関してはたくさんの種類があると困ることも多いけれど、少なくとも音楽は多様であった方が楽しい類のものだと思うから、それ自体は別に悲しい話ではないと思う。

人の数だけ、好みがあるということは、そんなに悪いことではないのだ。

新しい作品はいつだって厳しい眼差しをむけられる

特に、今までの音楽と違った美的センスや価値基準で作った音楽はそのやり玉に挙げられやすい。

若い人が作った音楽を、年配の人が「つまらん」というのは、その典型的な流れのひとつだと思う。

当然ながら。

聴き手ごとに、それぞれの価値基準があって、然るべきだと思う。

何が「良い」と思っていて、何を「悪い」を思うのかは人によって違いがあって、然るべきだと思う。

特に若い人の間で流行っているものの多くは、上の世代からみたらむむむむむ、と思うことが多いのは当然だ。

それは、そういうものだと思うから。

ただ、ここで対立が生まれるのだとしたら、それはちょっと違うよなーとは思う。

その人が持っている好きなものだったり、好きに思うセンスに光を当てたら、きっと素敵なものが見えると思うからだだ。

言葉が対立して、正しい正しくない価値判断に話を敷衍させてしまうと、そこに宿る素敵な感受性はないがしろにされてしまう。

それは勿体ない。

その人特有の「こういう部分になら気付くことができる」という気づきというのはきっと素敵なものなのだ。

ただ一方で、そこに気づくことができるその人には絶対に気づけないものを、その人がバカにしようとしている人は気づけている、という実態もあるということは考えてもいいのかもなーなんて思う。

お互いの気づきをリスペクトできたら、きっと音楽を聴くことはより豊かなものになるんじゃないかなーとぼんやりと思うからだ。

例えば。

音楽オタクからすれば、いわゆる「顔ファンの人たち」は、音楽をちゃんと聴いていないなんて思われがちである。

もちろん、人によってその程度の差はあるし、絶対的なものとして言えるわけではない。

けれども、往々にして自分が舐めている相手だって、実はすごく丁寧に音楽を聴いていることも多い。

少なくとも、自分とは違った感受性でその音楽を受け止め、そのオタクでは気づくことができない気づきを、その音楽から得ていることだって往々にしてあるわけだ。

もちろん、その気づきを言葉にするのが上手い下手はあるけれど、どんな人だってそれぞれの眼差しの中で、それぞれがたくさんのことを気づいているのではないか。

そんなことを思うわけである。

音楽が面白いのは、ひとつの要素で価値判断ができないところだ。

メロディーが良いというのも音楽のひとつの素晴らしさであろう。

歌詞が良いというのもひとつだし、リズムに面白さを感じることもあるだろう。

構造的な捉え方をして面白いと考えることもあれば、楽器のなり方や響き方、音の配置の仕方にぐっとくることもある。

きっとそれぞれがたくさんの気づきの中で、それぞれの「良い」を発見している。

そんなことを思うわけだ。

若い頃は簡単に気づけたことも、歳を重ねて簡単に気づけなくなって見失ってしまうということもあるだろう。

逆に、知識がないからこそ、その良さを良さと認識することができず、スルーしてしまうということもあるだろう。

音楽って、想像以上に「良い」「悪い」を語るのは難しいのだと思う。

だって、人によって捉え方が違うのだから。

ただ、少なくとも、その人、その立場にしか見えないものがきっとあるはずで、それは努力とかではどうでもできないことが多いからこそ、そこに対して「そんなことはあるはずない」と否定するのではなく、リスペクトすることができたら、きっと音楽を聴くという営みはより良いものになるんだろうなーとぼんやりと思うのである。

特に自分より下の世代は、自分たちでは言語化ができないセンスで、何かをキャッチアップしていることが往々にしてあるから。

そんなことをふと思うのである。

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