SNSに漂う音楽におけるアンチコメントについて思うこと
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世の中にいるバンドの中には、エゴサする人もいると思う。
というか、バンドに限らず、世の中でアウトプットしている多くの人が、多かれ少なかれエゴサをしているのだと思う。
アウトプットするからには、その反応が知りたい。
そして、<反応が知りたい>と思っていたとしても、本音の本音では<褒められたい>という気持ちがあるのだと思う。
しかし、どれだけ素晴らしい作品を生み出したとしても、100人いれば100人が「素晴らしい」という評価をするケースは、ほとんどない。
スポーツのようにある程度は良し悪しの尺度が決まっているものであれば、比較的全員が同じ方向を向く可能性が高い。
しかし、音楽のように絶対的な価値が決まっていないジャンルであれば、ひとつの作品における評価は千差万別であることが多い、
エゴサをする場合、この千差万別の評価をダイレクトに目にすることになる。
そう。
否定的な意見だったり、あまり目にしたくない意見にふれることだって少なからず、あるはずなのだ。
その意見が芯を食っているのか食っていないのかはケースによるとは思う。
しかし、その意見が芯からどれほどの距離だろうが、やはそういう意見に少なからずダメージを受けてしまう人も、いるのではないかと思う。
届く距離が増えていくようにつれて、そういう意見を目にしてしまう機会も増える。
なので、一気に自分の音楽が届く数が増えた人は、ここに多少のストレスを感じてしまうケースもあるようである。
ただ。
たまに思うのが、そういう言葉は表裏一体かなーということ。
というのも、そういう意見にこそ、その人の魅力がたくさん詰まっているんだよなーということを強く思うわけだ。
基本的にアンチが発生するということは、その作品なり対象なりに明確な個性が生まれていることを意味する。
だからこそ、そこに引っかかりを覚えるわけだ。
本当の意味で魅力がなかったり、無味無臭なものだったとしたら、そもそもそこに対して意見を投げかける対象にすらならないわけなのだから。
前提として、そこにはっきりとした魅力がある。
で、その魅力についてはどう思うのかは人によって違う、という話なのだと思う。
アンチコメントをよくよくみていると、魅力の裏返しの反応をしていることが多くて、根っこは称賛の言葉と変わらないケースも多いわけだ。
でもm世の中、アンチ的なコメントをみて、アンチコメントに指摘された<そこ>を直そうとする人もいる。
せっかくの個性に対してネガティブな感情を持つケースもあるようだ。
もちろん、内容によっては直さないといけないものもあるかもしれない。
が、往々にしてそこには、たくさんの人を魅了する魅力が溢れている。
特に、音楽の場合、そういう逆転が頻繁に起こるものだと思う。
「変な声」だと揶揄されたバンドの歌声が、<個性的で魅力あふれる歌声>だと評価されるケースなんて、よくある。
演奏に個性がないと言われたバンドが、気がついたらそのバンドでしか鳴らせないアンサンブルがあると評価されるケースなんて、よくある。
キャッチーじゃないと言われていた歌ばかりを歌っていたバンドが、その楽曲の個性を唯一無二であるとして急に評価されるケースなんて、よくある。
そう。
むしろ、そこから大いなる魅力が溢れることになるのだ。
なんてたって、(音楽的な意味において)批判の言葉を集める個性は、大いなる個性への裏返しとなるのだから。
まとめ
誰の何の話、というわけではないんだけど、ふとそんなことを思ったので言葉にした次第。
まあ、何が言いたいかということ<好きなもの>に対してのアンチコメントを観た場合、そのアンチコメントがある種その魅力に惹かれてのものであれば、むしろその素晴らしさを示すエビデンスになるんだよなーということ。
全員が同じ意見になることなんてないんだし、対象について様々な感性があるのが世の中の面白いところでもあるわけで。
なので、必ずしもそういう意見って、ゆうほどに気に病まなくてもいいのかなーなんてことをぼんやりと思うわけである。
むしろ、その指摘は個性を見出すうえでの大きな契機にすらなりえる。
そういう可能性に満ちあふれているからこそ、音楽って面白いんだよなーとふと思うのである。
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