ASIAN KUNG-FU GENERATIONのライブに来て欲しい
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「みんな、自由にね」
「誰の真似もしなくていい、俺の真似だってする必要ない」
「音楽に併せて身体を動かしてもいい、動かさなくてもいい」
「俺たちも楽しむから、みんなも楽しんで帰ってください」
近年のゴッチは、ライブのたび、我々観客にそう伝えるようになった。
音楽における「自由」。これはいまのアジカンにおいて、とても切実なテーマであるように思う。
5月にリリースされた両A面シングル「Dororo/解放区」の「解放区」は、まさにその追及と葛藤の結晶だ。
《解放区 フリーダム
笑い出せ 走り出せ 踊り出せ 歌い出そう
解放!》
アジカン流のオーセンティックなギターロックから始まり、感情の昂る1サビ、穏やかな間奏を経て徐々に熱を上げるスポークンワードのパート(アジカン初の試みだが、それが違和感なく曲の流れに組み込まれている)が、ラストのサビに結実する。
人々が、思い思いの「解放」を発露するこの結末にこそ、彼らの向き合ってきたテーマが詰め込まれている。
音楽という「自由」、そしてそこに至るための「解放」。
そのテーマについて、アジカン、中でもゴッチは葛藤を繰り返してきた。
転機となったのは、恐らく2017年のワールドツアーで南米に赴いた経験だと思う。
音楽に併せてダイレクトな熱狂を露にする南米の観客に接し、良くも悪くも統制のとれた日本の観客に抑圧を感じたのだろう。
朝日新聞の連載コラムで彼が南米と日本の観客の性質について言及した際は、様々な反響を呼んだ。
画一的に腕を振り上げ、一糸乱れぬ行動が美しいとされ、マナーが必要以上に厳しく叫ばれる「邦楽ロックらしい」ライブに違和感を覚える声を聞いたことは幾度もある。
しかし、それをして日本の観客の楽しみ方を否定してほしくない、という言葉もよく聞く。
誰かと同じ楽しみ方をとることは、抑圧の結果なのか、自主的な選択なのか――難しい問題だと思う。
そういった賛否両論の声を聞き、ゴッチは「自分自身が誰より自由に楽しんでみせる、『魂の解放運動』」を遂行することを決めたという。
誰かの楽しみ方に疑問を呈するより、己が先陣を切って「自由に楽しむこと」を提示してみせる――これはゴッチだけでなく、ワールドツアー後のアジカンのモードを端的に表したものだ。
抑圧の内部にいる人間は、自分が抑圧されていることには気づかない。
何が抑圧たりうるのかも、誰を抑圧しているのかも、不透明で漠然とした問題だ。
それらが混然一体のライブという現場において、全員が自由を享受できる場を作ろうとするとき、もはや誰かのやり方を批判している場合ではない。
だからこそ、アジカン自身が自由を体現することによって、観客を自由へと導くことに決めたのだろう。
時に率直な意見を吐露し、時にリスナーとぶつかりながら、ゴッチは少しずつ前へと進んでいる。
現在のアジカンは、昨年末に発売された最新アルバム「ホームタウン」を引っ提げたツアーを敢行中だ。
このツアーの中で、「解放区」という楽曲はどんどん変化を遂げてきている。
前半のライブハウス公演でリリース前の新曲として披露されたこの曲は、その構成がゆえに多くのリスナーに衝撃を与えた。
スポークンワードのパートは、特に感動と動揺の両者の反応が散見されたように思う。
解放を歌う大サビも、三月のリキッドルームや四月のZepp Tokyoではまず圧倒されている観客が多いように感じた。
しかし、「解放区」はツアーの過程で、徐々に変化を遂げてきている。
五月のジャパンジャムでは、トリとして大勢の観客の前で――初めて聴く多くの観客の前で――この曲が披露された。
もちろん聞き入る観客が多かったが、それでも広く開放的な会場ゆえか、自然に音楽に揺られる人々の姿を見ることができた。
そして五月からのツアー後半、ホールツアーの道程では、曲に合わせて各々の楽しみ方を選ぶ人が増えていっている。
圧倒から、徐々に共振のほうへ動いてきているように感じるのだ。
そして何より、アジカンのライブそのものが解放を実現しつつある。
冒頭のようなゴッチの言葉もあって、様々な個所で「アジカンのライブには制約がない、入りにくさを感じない、自由に楽しんでいいと言われて救われる」という声が聞こえるようになった。
ライブにやってくる人々も様々だ。
男女比もばらけているし、コア層である20~30代以外の観客も容易に目に入る。
友達とやってきた学生、仕事帰りのサラリーマン、大きくなった子供を連れてやってきたお母さん、年配の夫婦もいれば中高生もいるし、中には小学生と思しき子供がひとりで来ているパターンなんてのもあった(!)。
海外の観客が一定数存在するのもアジカンらしい。
そして、それらの人々が、決まりきったポーズで盛り上がるのではなく、それぞれのやり方で音楽と接すしている。
ある人はガンガンに拳を挙げ、ある人はゆったりと横揺れして、ある人はじっくり聴き入って、ある人は堪えきれずに涙して――そういった「楽しみ方の多様性」は、アジカンのライブに長く通うひとびとに訊ねても、近年明確に変わってきていることだという。
より規範的、抑圧的になりつつある社会の中で、アジカンのライブは間違いなく「解放区」として育ってきているのではないだろうか。
それにしたって、迂遠な理想である。
自由という言葉は難しい。ライブにおける自由は、もちろん責任とのトレードオフだ。合唱はどこまでしていいのか、地蔵は失礼じゃないのか、服装だって周りに迷惑になったら問題だし――そういった葛藤が出てくるのも当たり前だ。自由とは、何から何まで許容されることではない。
しかし、自由とは、もちろん外的な束縛や強制のもとでは実現されない。
アジカンのライブは、自由を希求し続けている。
そして、その先の自由は、未だ完成していない。
SNSというシノプティコンで、私たちは未だに葛藤している。
他のアーティストのファンがそうであるように、あまりにも普遍的で、あまりにも没個性的な葛藤を。
「アンコールのときに写真撮影オッケーだからって、演奏見てないで写真ばっかり撮ってるの迷惑でしょう?」「写真撮影許可なんてやめたらいいのに」「ツアーのネタバレは避けるのが礼儀なんじゃないですか?」「自由ったって、ゴッチの声が聞こえないくらい大声で歌っていいわけないだろ。常識で考えろよ」「マナーを守らない観客のせいでライブに集中できなかった」「メンバーばっかり見ていて、音楽聴いてないの?」「盛り上がらないなんて演者に失礼」――
渦巻く他者への批難の言葉は自由からは程遠い。
だが、何も渦巻かなければ、それはそれで自由には至らない。
ゴッチ自身、アジカン自身が、音楽と自由について葛藤を繰り広げてきた。
言葉と行動を繰り返して、試行錯誤と失敗の果てに、「自分自身が自由を提示する」ことを志す「解放区」が生まれた。
だから、私たちのこの葛藤を、自由を志すものであってほしい。
誰もが自由について葛藤することそのものが、「解放区」への道であってほしい。
葛藤なき解放の上には、きっと自由は生まれない。
「解放区」とは、永遠に完成しない、完成しないからこそ尊い自由の生まれる場なのかもしれない。
個人的な話として
最初、この文章を書き始めたとき、文意を「アジカンのライブは自由で楽しいから、みんな是非一回観に来て欲しい」といったものにしようと思った。
そうして書いていて、その途中でとある公演に参加して、「ああ、違うな」と思った。
私は、「解放区」のラストのサビが、そのままライブ会場で実現して欲しいと思ったし、この曲に込められた願いとはそういうものなのだと思った。
今はまだ新曲としてのぎごちなさもあるけれど、だんだん実現に近づいている。
いつかは誰もが好き勝手に、己の心の発露を叫び歌い上げて、それでいて他人への思いやりを忘れず朗らかに――。
でも、違うんだ。
「自由で楽しいから来て欲しい」でもなく、「『解放区』が実現して欲しい」でもなく。
「解放区」を志すのは、私たちだ。
なにより、私自身だ。
誰かが変わるのを待つのではなく、自分自身が常に自由を希求し、考え、実行に移していく。その先にこそ、「解放区」があるんだと、私はそう感じている。
だから、こう言葉を変えたい。
アジカンのライブに来て、一緒に「解放区」を創りませんか。
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筆者紹介
再録ソルファで出戻ったクソポエム量産しかしないアジカン好き。文章を書きます。
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