推しと出会えた奇跡についての考察
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本当に最近は、色んな悲しいニュースが目につく。
その「悲しい」は色んな角度のもので、言葉を尽くしてもキリがないほどの悲しみが積み重ねっていく。
確かに物心がついてから、常に悲しいニュースはいくつもあったけれど、SNSの存在感が大きくなるにつれて、目につく「悲しみ」の種類が変わった心地を覚えるわけだ。
「悲しい」だけに限らず、不用意な怒りだったり、知りたくもなかった事実だったりを目にするケースも増えていく。
キラキラとしていたものっていたものが幻だったのだと落胆するケースだって、よくある話になってきた。
シラフになればなるほど、「ああ・・・生きるのは大変だな・・・」そう思う人もけっこう出てくるのではないかと思う。
それでも、ほとんどの人はちゃんと生活して、それなりに懸命に生きている。
とても凄いことだし、とても偉いことだと思う。
じゃあ、なぜ自分は苦労しながらも、ちゃんと生活して生きているのだろうか?
仮にそう自問したとき、「推しがいるから」と答える人も一定数いると思う。
ここでいう「推し」というのは、色んな人、色んな役割の人を指さして語ることにするが、わりと多くの人にとって「推し」と呼べる存在はいるのではないかと思うのだ。
推しという言葉だとなんだか俗っぽく聞こえてしまうかもしれないが、自分の中で「この人がいるから頑張れる、この人から生きているからエネルギーをもらえる」という役割の人って、わりといると思うのだ。
アイドルかもしれない、アーティストかもしれない、もっと違う仕事をしている人かもしれない、なんならデスクトップにだけ存在している人なのかもしれない。
細かいことはこの記事では掘らないけれど、確かにその存在が生きるうえで重要なエネルギーをくれる存在である。
そういう対象を指して、この記事では「推し」という言葉で表現してしまいたい。
人によって、推しがどうあってほしいか、という理想はあるかもしれない。
自分にとって、どういう距離感が推しとの最適な距離感か、というのも人によって違いがあると思う。
でも、そこにはふたつの奇跡があって、その奇跡は尊ぶべきだと思っている。
まずは、自分がそこまで熱中できる人に出会えたという奇跡だ。
推しのことを知る前と、知った後では、きっと見える世界も違うだろうし、生活するうえでのモチベーションも大きく違うと思うのだ。
間違いなく、推しによって、自分の視界がひらけた。
そういう人だっていると思うし、そういう健全な関係があるからこそ「推し」という言葉が光り輝くのだと思う。
世の中にはたくさんの人がいて、推しと出会えるかどうかを確率で表現したら、きっとすごくそれって尊いことだと思う。
推しとの出会い方は、人それぞれだと思うし、遠い時間旅行の果てに出会った推しもいるのかもしれないが、スケールが大きければ大きいほど、推しと出会えた奇跡は尊いものになると思う。
そして、もしあなたにとっての「推し」が今もこの世のどこかで生きている人なのだとしたら、同じ惑星で、同じように生きているという奇跡も尊ぶべきだよな、と思うわけだ。
推しに対しての理想はあるのかもしれない。
こういうことをしてほしいとか、こういうふうにいてほしいとか。
色んな願いがあるのかもしれない。
でも、もしその推しが元気に生きていて、どこかで生活しているのだとしたら、その奇跡も尊ぶべきだよな、と思うわけだ。
それって当たり前のことであるようで、あるタイミングできっと当たり前じゃなくなることだと思うから。
まとめに代えて
嫌なニュースは目につくし、現実は塞ぎ込むようなことばかりが続く。
でも、その中でもちょっとした眩しいものもいくつか存在している。
視点を変えたら、見えてくる世界も変わる。
そんなことをふいに思った結果、こんな記事を書いてみた、そんな次第
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