藤井風の「真っ白」の歌詞もサウンドもあまりにも真っ白すぎる件
藤井風の「真っ白」を聴いて感じたのが、ずばりコレ。
こんなにも、タイトルと楽曲の出立がシンクロしている歌ないぞ、というもの。
どういうことか?
ご存知の通り、この歌のタイトルは「真っ白」である。
そして、この歌の聴き心地があまりにも”真っ白”だったのである。
え? 余計に何が言いたいのかわからなくなったって?
では、今から順を追って、この部分を説明してみたい。
すごくボーカルの感じがナチュラル
まずは、ボーカル軸の話。
「真っ白」の藤井風のボーカルって、すごくリラックスしている感じを受ける。
厳密に言えば、別にリラックスしているわけではないのかもしれないが、そもそもとして、多くの男性ボーカルの場合、キーを高くしようとすると、独特の”力み”がボーカルの中に生まれるケースが多い。
そうでなくても、意図的にパワフルなボーカルを展開したり、声色を変えたりすることで、意図的にボーカルに”力み”を生み出すことが多い。
しかし、藤井風のボーカルはそういう力みから距離を置いている印象なのだ。
「好きだよ 知らんけど」のフレーズを歌うときなんて、どこまでもボーカルが柔らかくて心地良い。
例えるなら、”力み”が見えるボーカルが分厚いステーキなのだとしたら、藤井風の「真っ白」のボーカルは夏場に食べる素麺みたいな感じ。
身体に取り入れるまでの道中で、こちらの負担はどこまでも最小限というか。
身を任せているだけでも、知らずに体内に入り込むような癒しがあるのだ。
しかも、「真っ白」が凄いのは、ちゃんとサビではファルセットを使っているし、メロディー的な展開はそれなりにある歌でありながら、ずっとナチュラルかつリラックスな展開になっている点。
ファルセットはやっぱり、並のボーカルであると、そこがそれ以外のメロディーに対して”違和感”になるケースも多い。
しかし、藤井風のファルセットは、そうはならない。
あまりにも統一した流れの中で、癒しのボーカルとして響くことになる。
藤井風のボーカルの卓越さを改めて感じることができるし、どこまでも同じ色、しかも余計なものが入らないような流れの中で展開している印象を受けたため、”真っ白”感がある歌声だと感じたわけである。
歌詞の絶妙なフラット感
「知らんけど」とか「私」という一人称とか、「〜するわ」や「いいの」とかの語尾とか、藤井風らしいワードチョイスをいくつか垣間見える今作。
女性視点の色合いが強いので、普通に男性ボーカルが歌うと”創作物”っぽさが生まれる。
しかし、そこは藤井風。
むしろ、こういうフレーズこそが自然体に聞こえるのだ。
これは、これまで色んな視点やメッセージ性の楽曲を歌ってきたから、という部分も強いし、「真っ白」のボーカルが前述で書いたような魅力に溢れているから、という部分もある。
いずれにしても、藤井風の歌詞って、現代ポップス特有の「特定層に対して狙ってやっている感」がない。
タイアップソングではあるため、ある程度コントロールしている部分はあるにせよ、それを踏まえても、歌詞から藤井風としてのフラットな像が見えてくる。
これは、藤井風本人が美学をもって言葉を重ねているからだろうし、藤井風だからこその言葉遣いに満ち溢れているからであるように感じる。
そういう意味で、歌詞も純度100%。
どこまでも”真っ白”な歌詞だと感じたわけである。
ウィンターソングというわけではないけど、なんだか雪がしんしんと降るような感触
「真っ白」は、どことなくオシャレで軽妙なサウンドで展開される。
そして、ポイントではしゃららららん、という音を鳴らす打楽器が挿入される点。
シンセサイザーの音色と配分も見事であり、独特のトキメキが展開される。
結果、歌詞としてはウィンターソングど真ん中という感じではないけれど、音の意匠から、どことなく雪がしんしんと降るような景色も見えてくる。
そういう意味で、「真っ白」はサウンド的にも”真っ白”な歌だなーと感じるのだ。
まとめ
特にポイントなのは、歌詞で雪を描くのではなく、サウンドで雪を描いているという点。
いやまあ、上記は個人的な主観の話なんだけど、自分的にはそう感じたんだけど、ここが凄い。
「真っ白」を真っ白然とさせるなら、歌詞に色として真っ白なものを登場させるのがわかりやすい。
でも、藤井風はそういう作り方をしていない。
真っ白というワードは出ているが、これは内面の描写のためのフレーズだから。
でも、ちゃんと別の意味の真っ白も歌の中で感じられる気がするのが面白い、という話。
ボーカルなどの表現でもって、より真っ白という言葉を克明に印象付けている印象でもあるし。
いずれにせよ、やっぱり藤井風は2025年もとんでもない名曲をリリースしてきたなという、そういう印象。