キュウソネコカミの平成最後のオリジナルアルバム『ギリ平成』に収録される「推しのいる生活」についての個人的な感想を書いてみたい。

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歌詞の設定がすごく良い

そもそもキュウソの歌って、基本的に一人称と二人称の設定が面白い。

その視点を一人称にして歌ってしまうなんて!という面白さがある。

ある特定のキャラクターを一人称に設定してましまい、その視点を掘り下げていく。

その流れが秀逸なのだ。

もちろん、ある特定のキャラクターを主人公にして描き切ってみせるバンドはいくつもいる。

ただキュウソの場合、そこで描くキャラクターは、きちんと現実に存在しているタイプであることが多く、しかも、それは単なるマジョリティーな存在ではなく、痒いところに手が届くというか、絶妙なタイプをチョイスすることが多いのだ。

過去曲で言えば、「ファントムバイブレーション」なんかは、単に<若者のこと>を歌うのではなく、<スマホに中毒化されている若者>という、実際にちゃんといるんだけど、微妙にマジョリティーからズラすことで、その歌に出てくる主人公のキャラクター性をより強固にしていくという、そういう巧みさがあるのだ。

最近の曲でいえば、「メンヘラちゃん」なんかもそういう類の歌である。

これが、ヤバTなんかだと、マジョリティーからズラしすぎて、そもそも存在しないような人間を描きがちになる。

だって、流石にノリで入籍する奴もいなければ、かわEを越してかわFな奴もいないわけで。

つまり、ヤバTの場合、ツッコミがいることで成立する歌である、ということが多いのだ。

そう意味で、ヤバTの歌はすごくコミックソング的であると言える。

けれど、キュウソの歌はツッコミを必要としない。

「なんでやねん」がなくても成立するし、そもそも「なんでやねん」が不要である歌が多いのだ。

なぜなら、キュウソの歌って基本的に「ちゃんと実在する奴」を歌にしているから。

しかも、その実在する人物をリスペクトした上で歌詞に落とし込んでいる。

だから、笑える曲であるとか、ネタとして面白いとか、そういう次元とはまた違う味わいがあるのだ。時にエモさを感じたりもするのだ。

ちなみに、今回の「推しのいる生活」も、一人称と二人称の設定がなかなかに面白い。

歌詞を読んでいけばわかることだが、この歌の一人称は推しのいるファンであり、二人称である「あなた」はファンに推されるアーティストという設定になっている。

つまり、この歌は、本来であれば推される側にいるはずのバンドマンが、バンドを推しているファンの気持ちになって、歌っているわけだ。

バンドマンがファンの気持ちになって歌うという設定。

これがもう面白いなーと感じるわけだ。

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歌詞が良いその2

先ほども少し述べたが、単なるネタ曲とは違う地平にいるから、キュウソの歌は面白い。

最初にある視点設定と、視点を設定してからの歌詞の膨らませ方に味わいがあるわけだ。

今回の歌で言えば、単純なる推しのいるファンにとってのあるあるソングなだけではなく、仮に推しのいない人がこの歌を聴いても、「あ、推しのいる人の生活ってこういうものなんだ」と想像できる余地が大きい。

ここがすごくポイントで。

ある特定の層を歌にしてしまうと、その外部の人にとってその歌詞はヘブライ語になってしまいがちで、意味が理解できなくなることが多い。

西野カナみたいな歌詞をファン以外の人が「ネタ」にしてしまうのは、ああいう女子の感情を理解することができず、共感することができないから、というのがベースにある。

つまり、カテゴリー性が強い歌は、カテゴリーからはみ出た人にとって理解できないものになりがちなのだ。

けれど、キュウソの歌は違う。

仮に推しがいない人が聞いた時としてもメッセージとして届く歌になっているし、それは単なるあるあるネタを超えた歌だからこそ、達成できることなのだと思う。

難しく書いてしまったが、要は丁寧にキャラクターが描かれていて、心理描写もきちんとされているから、共感しやすいという話。

フレーズひとつひとつのチョイスが本当に巧みなのである。

キュウソというバンドを推しにしているファンについて

この歌に出てくる「推しを持つファン」ってすごく良いやつじゃないですか?

みんなのあなたでいてほしい
矛盾してるけど僕たちは
あなたの幸せも願ってる

こんなことを言えるなんて、すげえなって思うのだ。ファンの鑑だよな、って思うのだ。

どのバンドのファンとは言わないけれど、独占欲をむき出しにしているバンドのファンって、いっぱいいると思うのだ。

そんななかで、この推しはすごく良い奴である。けれど、その一方で人間味もあって、

推しを眺めてるだけで潤う
推しが動いてるだけで尊い
遠く離れててもここにいる
売れてくれ売れないで

このフレーズは、この主人公の人間味が溢れ出た瞬間のように感じる。

でも、やっぱり最後まで歌詞をみると、この推しはとっても良い奴で、なんだかんだで推しのことを健気に思っているから、多幸感な空気が流れている。

で。

なんで、こんなにこの歌は「良い推し」が書けているのかといえば、答えはひとつだと思うのだ。

それは、キュウソを推しにしているファンの人たちが、みんな「とても良いファン」だから。

そんなことを思うのだ。

バンドマンって、自分たちのファンをみて、推しとはこういうものなのだと認知していくと思うのだ。

そう考えると、この歌で描かれる主人公とは、キュウソのファンそのものなのではないか?と思ったりするのだ。

キュウソのファンは良いファンが多いから、推しのいる生活の主人公もすごく良い奴だし、キュウソは良いファンに囲まれているからこそ、良い推しを書いたこの歌を自信満々に歌えるのかなーと思うわけだ。

だからこそ、この歌はとても多幸感に満ち溢れているのかなーと思うのだ。

言ってしまえば、キュウソのファンがいたから、こういう良い歌ができたというか。

だって、この歌を聴くと、キュウソを推している人はキュウソのことを愛しているんだろうなーということがとても伝わるし、キュウソも推してくれるファンのことを愛しているんだなーとすごく感じるのである。

じゃないとこんな歌詞、書けないよなーって思うのだ。

だから、キュウソというバンドが推しな人の生活って、とても幸せなんだろうなーって思うのだ。

そして、この歌を聴けばそんな気持ちになれるからこそ、この歌を聴くたびになんだか微笑ましい気持ちになれるし、何度も聴きたくなるお気に入りの一曲になるのである。

マジで11月末は、この歌をヘビロテする日々。

わっしょいわっしょい。
わっしょいわっしょい。

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