こなそんフェスに行き、チャットモンチーのラストライブを観て思ったこと、感じたこと。

幸運なことに、チャットモンチーの最後のライブとなったこなそんフェスに行き、チャットモンチーの最後のライブを観ることができた。

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2018年7月22日の話である。

で、せっかくなので、終わった次の日、5000字程度の、ライトなライブレポというか、感想記事みたいなものを書き上げた。

簡単に内容を言えば、チャットモンチーの最後のライブは、どこまでもチャットモンチーらしかったという話。

いつものようにMCはすごくマイペースで、しかもすごくグダグダで、でも演奏が始まるとパリッと空気を変えて、ぐうの音も出ないほどのカッコいい演奏をする、そんないつものチャットモンチーのライブだったという話。

もちろん、いつも通りではない部分もあった。

あっこ氏はステージに出てきた冒頭のMCで既に半分泣いていたし、えっちゃんも終盤に披露した「ツマサキ」では声を詰まらせて、歌っている途中でありながら、マイクから離れる一幕もあった。

けれど、チャットモンチーはなんだかんだでチャットモンチーらしくて、たくさんの涙もあってこっちも涙しちゃうようなライブだったけれど、ライブが終わる頃には二人とも笑顔で終わっていて、悲しいんだけど多幸感に包まれる、そんな素敵なライブだったーー

そんなことを書いていた僕のライブレポート。

もちろんそう思ったのは本当だし、思ったこと、感じたことを言葉にしたまでではあるんだけど、推敲しながら読んでみると、なんだかな〜って気持ちになった。

自分が書いた全ての言葉が薄っぺらく感じてしまって、なんだか急にやる気をなくしてしまったのだ。

クズ男が「俺はお前だけ愛してる」って言っているような温度感の、実にペラい言葉の羅列だな〜って思ってしまって、途端に記事をあげる気をなくしてしまったのだった。

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じゃあ、何を思ったのか?

僕は基本的に天邪鬼である。

だから、本音の本音を言えば、ステージで泣いてるチャットモンチーを観て思ったのが「だったら続けてくれたらいいのに…」って気持ちだった。

いや、こう言うと少し語弊がある。

もう少し付け加えるならば、辞めるに足る明確な理由があったり、傍目から見て、もう辞めるしかないよなーっていうのをヒシヒシと感じる活動しかできていない状態なら仕方ないよなーって思ったんだけれど、僕がチャットモンチーを観ている分には、どうしてもそういう要素が見つからなかった。

別にバンドを辞める理由はなんだっていいとは思っている。

儲からなくなったなんていう世知辛いお金の話でもいいし、致命的にバンド仲が悪くなったなんて話でもいいと思う。

安室奈美恵のように、体力的に完璧なパフォーマンスをすることが難しくなったという話でも納得できるし、他にやりたいことが見つかって、そっちに力を入れていきたいって話ならむしろ応援したいし、頑張ってほしい!って気持ちにすらなる。

そういう明確なる理由があって、それを理由にチャットモンチーを終わらせるっていうんだったら、僕は心置きなくその涙を受け入れられたと思うのだ。

けれど。

僕が知る限りでは、チャットモンチーを完結させる理由は上記のどれにも当てはまらない。

少なくとも、公式にアナウンスされている話だけで見れば、そう言えると思うのだ。

まあ、裏ではえっちゃんとあっこ氏が死ぬほど仲が悪くて、バチバチにケンカしてて、ステージに下りたらお互いの髪の毛を引っ張り合うような、バンド活動を続行できない状態にあるという可能性はゼロではない。

あるいは、二人とも結婚して家庭があって子どもがいるからコンスタントなバンド活動を続けるのが難しくなったという「家庭の事情」であるのかもしれない。

あるいは、体力的にツアーをこなしたり、そもそもフルセットのライブ公演を行うこと自体が難しくなってきたみたいな「大人の事情」であるのかもしれないとは思う。

でも。

実際には、チャットモンチー本人たちが公式的に発表したチャットモンチーを完結させる理由は、これだけだった。

バンド活動を「やりきった」。だから、完結することに決めたんだ、と。

やはり、納得ができなかった。

確かに最後に作ったチャットモンチーの「誕生」というアルバムは、完結することが分かっていたからこそ、どこまでも気合いを入れて作った、文句のつけようがないアルバムだったと僕は感じたし、チャットモンチーの底知れなさと、真骨頂を見た気がした。

けれど、そのアルバムを携えて「やりきった」と言われたら、ええ〜そんなことないよ、って正直思ってしまう。

このアルバムは、これからのチャットモンチーの可能性を見出せるアルバムのように感じたし、もう少し時間置いて新たな取り組みをしたら、絶対にそれを超えるもっと良いアルバムが作れるよ〜そんな未来しか見えないよ〜って、どうしても言いたくなってしまうようなアルバムだったから。

ライブだって同じことだ。

この日は、チャットモンチーのコピーバンドから始まった若手のHump backから、「決して上手くはなかったけれど、キャリアを積んでいくなかで演奏技術が格段に上がったバンドの代表格」であるベテランバンドのスピッツまで出ていたから改めて色々と思うところがあった。

通してライブを観て感じたのは、若手には若手の良さがもちろんあるけれど、歳を重ねたバンドには歳を重ねたバンドだからこそ鳴らせる音、パフォーマンスがあることをはっきりと感じたのだった。

チャットモンチーのキャリアにおいても、つくづくそれは感じていたし、この日のライブを観たら余計にそれを感じたから、この先も続けることを選んでいたら、さらにシャープな音を鳴すようになった、僕の想像がつかないようなカッコよさを身につけたチャットモンチーがきっと観れただろうに……。そんなことを思ってしまったのだった。

少なくとも、これがゴールであり、これが完成形!と言えるアクトではなかったように感じた。

泣きベソをかきながら、感情のこもったパフォーマンスをしている二人の姿を観ていたら、なおのこと。

完結後の予定は何も決めていないという旨のMCを聞くと、なおのこと。

そして、思うのだ。

だったらなんで、完結なんてしちゃうんだよ、と。

もし、「やりきった」というのが理由で、一通りやりきってしまったと言うなら、どっかのいきものがかりみたいに、一時休止という選択肢を選ぶことだってできたし、どっかの奥田民生のユニコーン解散時のように、しばらくはリラックスするために一年間釣りをしてくれてもいいから、(済)なんてしないで、たまーにでもいいからステージに立って、音を鳴らしてくれたっていいやん!そんなことを思ってしまったのだ。

完結させるっていう進路を決めたチャットモンチーの気持ちはわかるし、チャットモンチーの言いたいこともわかるんだけど、(本人たちは2016年のこなそんフェスでやりきったという気持ちが強かったと他のインタビューで述べてはいたが )ただのワガママな客である僕からしたら、納得できない気待ちの方が強かった。

そりゃあ、他のバンドがチャットモンチーの歌を歌い継ぐのだろうし、チャットモンチーこそが青春だったバンドが、今後のロックシーンを牽引する未来は容易に想像できる。

だから、チャットモンチー自体は完結しても、チャットモンチーの功績は消えないし、長い日本のロックの歴史にチャットモンチーというバンドの影響は色濃く残ることはわかる。

でもなーって思いが渦巻いては消えることがなかった。

これが、僕の正直な気持ちだった。

ファンなんて結局わがまま

一方で、辞めないでっていうくせに新譜が出たらそんなに関心を示さないし、昔の方が良かったよなーと悪態をつきながら、ライブでは昔の歌ばかりを求めてしまう実情があるよなーなんてことも思ったりする。

そして、ライブのハイライトになるシーンはいつだって「○○年前にあった○○の再現!」みたいな、昔の景色を追い求めたものばかりになってしまうのだ。

現に、今回のこなそんフェスの最大のハイライトになったのは、Base Ball Bearとシュノーケルのメンバーがステージに上がってセッションした、若若男女の再現の場面だったように思うし、元メンバーである高橋久美子がステージにやって来て、ドラムに座ってシャングリラを披露した、そのタイミングだったように思うのだ。

これはチャットモンチーに限らずだが、ある程度キャリアを積んだバンドは、どうしても盛り上がりのピークが昔の曲や昔の場面の再現になりがちだし、どうしても過去の思い出を超えられないようになってしまう気がする。

そして、いつからかライブが何かを「発見」する場所から、「確認」する場所に変わってしまい、各々の客の記憶の答え合わせをするような場所に変わってしまうのだ。

ツアーが行われると、毎回セトリのことばかりが注目されるバンドだって同じことだ。

キャリアの長いバンドだと、今回のツアーでは何を歌ったのかとか、自分の想い出のあの歌を歌ったのかとか、懐かしのあの歌は歌ったのかとか、そういうことばかりが注目されるようになっていく。

あるいは、曲だけに限らず、このバンドはこういうノリなんだよねとか、このイントロが来たらこういう反応しようねとか、アンコールではみんなでこの歌を歌うことが決まりだからこうしようね!みたいな、過去の記憶がルール化へと繋がり、思い出のうえになりたったうえでのライブ消化がなされていく、という構造も似たような気がする。

バンドが思い出のうえで成り立つようになるようにつれて、そのバンドが自分の思い出に泥を塗るようなことをすれば文句を言うようになるし、どんどんそのバンドに対してワガママになってしまうのだ。

○○をするなんて、自分の知ってる○○とは違う!俺が○○に望んでいるのはそういうことではない、なんてワガママを言うようになっちゃうのだ。

もし、過去の記憶にそのバンドの本当の思い出があるのだとしたら、そのバンドはその人にとって「青春」になってしまったんだろうなーと思う。

チャットモンチーが完結という道を選んだことで、言えることがひとつある。

それは、チャットモンチーは同じことをただ繰り返したり、誰かの答え合わせになるようなライブをするためだけにバンドを続けるという選択をしなかったということだ。

青春には青春なりの素晴らしさがあるけれど、いつまでもその青春に安穏するつもりはない、そんな想いがあったのかもしれない。

チャットモンチーはそういうことを拒んだからこそ、「完結」という道を迷いなく選んだのかなーなんて思うのだ。

だからこそ、チャットモンチーの最後のワンマンライブは「サラバ青春」で締めくくったのだろうし、ラストのこなそんフェスのセトリは、3人時代に制作した楽曲を中心に組んだかなーなんて思うのだ。

ちなみに、チャットモンチーの最後のライブは本当にあっという間だった。

色々とあったけれど、最後、二人はどこまでも突き抜けた笑顔でそのアクトを終えていた。

お金を理由にバンドを動かすことなんてないからこそ、メンバー仲が険悪になったから完結したわけでもないからこそ、おそらくは二度と、この二人は「チャットモンチー」としてはステージに立つことはないんだろうなーということがわかった終幕だった。

改めてそれを感じたから、ライブが終わった後、僕は言葉にはできない喪失感を感じてしまったのだった。

お客なんて、いつだってワガママなのだ。

続けてたら続けてるなりに、変わってしまったとかなんだかんだと文句を言うくせに、これ以上は変わらないことを選ぶために完結を選んだら辞めてほしかったのに、なんて文句を言う。

どこまでも、ワガママなのだ。

そして、僕がチャットモンチーに言いたかったワガママはたったひとつだった。

願わくば、もっとチャットモンチーの新曲聴きたかった。

もっとチャットモンチーのライブを観たかった。

たった、それだけ。

たった、それだけの話だった。

それくらいに、チャットモンチーは最後の最後まで輝いていた。

最後の最後まで、とてもカッコよかったのだ。

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