ASIAN KUNG-FU GENERATION「ブラッドサーキュレーター」の歌詞の意味は?解釈と考察!
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アジカンことASIAN KUNG-FU GENERATIONが新曲ををリリースする。
タイトルは「ブラッドサーキュレーター」。
2016年7月13日にリリースされるこのシングル、なんとNARUTO -ナルト- 疾風伝のオープニングテーマなのだとか。
アジカンのアニメ主題歌といえば、未だに「リライト」と答える人も多いだろうが、あの頃とは比べ物にならないほどかっこよくなった彼らのサウンド。
あの頃とは変わらない感じのゴッチの歌詞世界に、あの頃とは雲泥の違いがある「ザ・ロック」と言わんばかりのアジカンのサウンド。
これは新たな名曲となりそうな予感の新曲であるが、案の定、ゴッチの歌詞は難解なので、それらひとつひとつを解きほぐそうとおもう。
では、どうぞ。
一番のAメロから最初のサビについて
「曖昧な評伝〜待ってるの」の部分。
曖昧な評伝とはなんだろうか。
食べログの評価とかネットの評判とかそういうことだろうか。
音楽だってちゃんと聴いていないくせに、ネットに溢れかえっている言説を鵜呑みにして、評論家を気取っている人がいる。
まとめサイトなんかで情報収集して、それで自分の意見として拵(こしら)えている人ばかりである。
そんなことを伝えるフレーズなのかもしれない。
世世とは、世の中とか世間という意味であり、歳歳とは、このフレーズの主語は特定の層のことではなく、子供も大人も含めて人間全員のことを言っているのだよ、という感じの意味だろうか。
次のフレーズをみてみよう。
「いつのまにか〜嘆いて」の部分。
似たような意見の人ばかりをフォローしてツイッターなんかで群れていても、いつの間にか周りはネットから足を洗って、気がつけば独りになるというのはよくある話である。
そんなことになってしまえば、ため息ついて嘆く気持ちもわからないではない。
この歌詞がいう「独り」とはどういう状態を指すのかわからないが、誰かと群れていてもどこか満たされない現代人の内面のことを指して「独り」と言っているのだろう。
あるいは、都会の人間は、みんな「独り」だと告発しているのかもしれない。
「寄生虫と〜唸ってるの」の部分。
蝸牛(かぎゅう)とはカタツムリのことである。
寄生虫とかカタツムリばかりいる場所は、なんとなくジメジメした暗い場所って感じがするので、そういう雰囲気をここでは伝えたかったのかもしれはい。
深深とは、その暗闇の中の深く深く、ということだろうし、散散とは、その場所は散々とした場所であることを示しているのかもしれない。
そんな場所で、声を響かせるように唸っている。
全て内面の話である。
要は本音を隠してみんな生きているよね、だから心は暗くジメジメしているよね、と言っているわけだ。
「いつのまにか〜飲み込んでしまえよ」の部分。
この暗闇も内面描写なのであろう。
だから、独りというのもある種の例えなのである。
ここでいう「声」とは自分の夢とか、確かにそこにあるはずの未来への希望とかそういうニュアンスな言葉であろう。
要はため息ついて落ち込んで暇があるなら他にやるべきことあるでしょ?というわけだ。
そして、サビである。
「情熱〜壊れてないだろう」の部分。
過去に夢をみてキラキラしていたが、今はゴミみたいなダメな日々を過ごしている。
ちょっとした縁で新しい人やモノ、組織に出会い、また新たに何かに向かって行動を始めたら、そのダメダメな日々さえも大切な財産になって、未来は輝きはじめるんだ、みたいなメッセージがここに込められている。
悲観的にみせかけ、最後はポジティブな言葉で締めくくるあたり、これはアニソンであり、そのタイアップを意識してゴッチが歌詞を書いていることがよくわかる。
「ジンジン〜浅いだろう」の部分。
まあ、言ってることはさっきのフレーズと同じであろう。
要はまだまだ時間はあるから悲観する必要なんてないし、おまえの抱えている闇なんてまだまだ大したことない、もっと辛い過去やハンディを背負っても成功した人だってたくさんいるんだ。
大丈夫だよ。
みたいな感じだろう。
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Cメロから最後のサビまで
ここから2番、というよりはCメロである。
みてみよう。
「雨は止んだよ〜手が鈍く悴んで」の部分。
悴んではかじかんでと読む。
雨というのは心象風景によく出てくる言葉で、辛いことや悲しい出来事の比喩として雨であることがわかる。
それが止むわけだから、ここからの未来は明るいものになるよというわけだ。
ご丁寧に「車道」を登場させることで、これからの未来を「進んでいく」ことを予感させるフレーズとなっている。
「歩みを止めないで〜どうか 君よ」の部分。
この辺りがこの歌で伝えたいゴッチのメッセージそのものといった感じか。
ここで出てくる「君」はこの歌詞を聴いているあなたそのものと捉えた方が辻褄が合うのではなかろうか。
「いつのまにか独りになった〜君を照らすだろう」の部分。
ここからは基本繰り返しになるわけだが、最後のフレーズである「愛を合えばこの日々ももう一度君を照らすだろう」だけ、新しい歌詞として登場する。
ネガティヴを歌った後に最大のポジティブを歌うのがアニソンの定石だから、このフレーズが出てくるわけだが、最後にいつの間にか独りになっていた僕にも愛を分け合え相手がいることを密かに告発するわけだ。
この辺り、ゴッチのメッセージとして読み解くのだとしたら歌を作るとき、歌詞を書くときというのは当然独りである。
けれど、それが曲として完成したとき、それはメッセージとなって聴き手という「君」に届くのである。
それこそ、愛を分け合って、君を照らす瞬間そのものなのかもしれないと思ったり思わなかったり。
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