三浦大知の「Polytope」の話。歌詞、ボーカル、サウンド。
みんなで口ずさめるようなポップソングも好物だ。でも、そういう楽しみ方とは遠い距離のあるような、美しさと儚さが同居した芸術作品を耽溺することも好物だ。
三浦大知の「Polytope」を聴いていたら、そんなことを思う。
売れ線かどうか、ということだけを考えたら、三浦大知の「Polytope」は売れ線の構造の楽曲ではないと思う。
わかりやすくたくさんの人にストレートに届くタイプの楽曲ではない気もする。
でも、刺さるにはどこまでも深く突き刺さる奥深さがある。
三浦大知の「Polytope」には、そういう魅力が詰まっている。
「Polytope(ポリトープ)」は、数学における概念で、n次元の幾何学的図形を指す言葉とのこと。1次元とか2次元とか、そういう文脈で使われる概念で、アルバム『球体』にも接続しうるテーマ性があるように感じた自分。
サウンドの洗練具合や、歌の中のテーマ性もどことなく『球体』と繋がるものを感じたし。
この記事では、そんな「Polytope」の魅力を言葉にしていきたい。
「Polytope」の言葉としての魅力
5分40秒ほどの楽曲でありながら、シリーズ化した壮大な映画のような風呂敷の大きさもあるし、複合的なテーマで堪能できる楽曲になっている印象。
特に今作は日本語歌詞、英語歌詞問わず、詩的な表現を散りばめることで、歌としての芸術性を高めている印象である。
わかりやすく、短く、キャッチーになることが良しとされやすいJ-POPシーン。
テレビ的に言えば、テロップにしやすいフレーズが好まれる只中において、「Polytope」は安易に意味性を作ろうとはしない。
なぜならフレーズひとつひとつで、色んな解釈ができるフレーズになっているから。
例えば、初めて『新世紀エヴァンゲリオン』の映画を観た人だと、その映像美の中で何を説明するのかわからなかったという人もいると思う。それは映像で単一の意味を伝えようとせず、色んな捉え方のできる映像展開していたから。
「Polytope」においても、そういう不思議な世界観が構築されている印象を受ける。
多面的な「Polytope」の世界と、対立するトピック
「Polytope」が面白いのは楽曲として多面的に楽曲が展開しており、対岸にある要素も同じ地平にあるようなテーマ性を浮き彫りにさせるからこそ、対比されるようなキーワードが歌の中で散見されるということ。
光と闇。
生と死。
繋がりと孤独。
しかも、ストレートに歌詞の中で対比を明言するのではなく、楽曲全編を聴き終わったとき、確かにこういう対比も歌の中で散りばめられていたなと感じ、しかも両者を「遠いものでありながら、側にあるもの」として歌の中で歌ってみせる凄さがある。
だから、「Polytope」はこういうテーマを歌っている歌だと安易に明言はできない。でも、染み込むように歌のテーマに浸っていくように不思議な心地を覚えることになる。
甘くて優しくて、でも冷ややかでスマートな歌声
「Polytope」の楽曲における、三浦大知の歌声って絶妙だ。
歌が上手いという前提は当然あって、高音が美しく響くという前提はあって、ボーカルをボーカルとしてシンプルに楽しむことができる。
そのうえで、「Polytope」だからこそトーンに、三浦大知が調節している感じがあって、その調節具合が絶妙なのだ。
歌の世界観がどことなく哲学的で、どことなくミステリアスだからこそ、三浦大知の歌声も神秘さを際立たせているというか。
変な表現かもしれないけれど、「Polytope」の三浦大知のボーカルって、めっちゃ上手いのに、必要以上の上手さが際立たない感じなのだ。
例えば、近年のJ-POPだと「わし、こんなにも高い声出せるんじゃよ」といった感じで、ハイトーンボイス、どかーん、みたいな魅せ方が多い。
で、こんなに高いキーでも伸びやかに歌えるなんて凄い=神業、みたいなストレートさで魅了する感じ。
もちろん、歌の魅せ方としてそういうタイプがあってもいいんだけど、少なくとも、三浦大知の「Polytope」って、必要以上の上手さは魅せない感じがした。
楽曲後半ではゴリゴリに甘さと鋭さを兼ね備えたファルセットを繰り出しているが、あまりにも歌の世界観に溶け込まれているのだ。
生きるうえで酸素って絶対必要だけど、酸素ってあまりにも当たり前の存在だから、いちいち酸素に感謝することなんてない。
「Polytope」において、三浦大知の歌があまりにも上手くて歌の中で素晴らしいのが当たり前の存在だから、いちいちその”上手さ”の部分に耳を傾ける必要がない。
そういう凄まじさが、「Polytope」のボーカルにはあるように感じた。
あと、「Polytope」はテンポ感として淡々としているから、リズムの部分にすぐに目を向けるタイプの歌ではないのかもしれないが、歌割りもそうだし、楽曲全体のリズムの切り方もそうだし、無になる部分の操り方も含めて、リズムの乗りこなし方もえぐい。
しとしととした楽曲展開だからこそ、リズムの乗りこなしが少しずれると歌の神秘性も削がれる。
でも、三浦大知のミリ単位のリズムを軽やかにのりこなし、合気道のような立ち振舞で歌のリズムと溶け合いながら、歌の世界を作り上げていく。
ブルースハープが締めくくるサウンド
この楽曲を聴いていて面白いなーと思ったのが、ブルースハープで楽曲を締めくくっていることだ。
あまりにもポップスの世界で、ブルースハープを聴くことってない。
ゆずですら、最近ブルースハープを楽曲に使う頻度は減ってきた。
でも、「Polytope」はクールな世界観でありながら、ラストはブルースハープという本来のこういうタイプの楽曲であれば、あまり取り入れないタイプのサウンドを歌の軸に据えている。
しかも、それが歌の世界にきっちりハマっているのが印象的だった。
どういう流れで、最終的にこのサウンドに着地したのかわからないが、サウンドひとつひとつを取っても様々なことだわりがあることを感じ取れる。
このパートではこの音を選んで使おう。
このパートはこっちの方が音のハマり方として適切である。
そんな選択を連続で、「Polytope」の歌が立体的になり、どこまでも芸術的に歌の世界を作り上げたよう感じるから。
歌詞の世界や三浦大知のボーカルも素晴らしいが、Nao’ymtの音楽家としてのセンスもいかんなく発揮されているところに、「Polytope」の素晴らしさがもうひとつ上の次元になっているところを感じさせられる。
まとめに替えて
「Polytope」においては、あまり語りすぎても野暮になるかも、という思い、本記事ではこの程度の感想に留めてみようと思う。
いずれにしても、他の音楽作品にはない体験ができる楽曲であることは間違いないので、たくさんの人に聴いてみてほしいなーと、そんなことを思う6月。