UNISON SQUARE GARDENの『Ninth Peel』は、スプラ3のトリカラバトルだった件

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自分は毎年勝手ながらに個人的ベストアルバム、と題した記事を書いている。

毎年ランキング形式で発表しているんだけど、2022年に一位にしたのは、羊文学の『our hope』だった。

2021年に一位にしたのは、Official髭男dismの『Editorial』で、2020年に一位にしたのがUNISON SQUARE GARDEN 「Patrick Vegee」だったのである。

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何が言いたいかというと、UNISON SQUARE GARDENの前作のアルバム『Patrick Vegee』が、すごく好きだったのだ。

あれから2年半ほどの時間が経って、UNISON SQUARE GARDENは新しいアルバム『Ninth Peel』をリリースすることになる。

リリースされてすぐアルバムを聴いた。

もちろん良いアルバムだと思ったし、その月の個人的なベストアルバムだな、とも思った。

でも、『Patrick Vegee』に比べると、そこまでハマらない自分がいたのだった。

『MODE MOOD MODE』、『Patrick Vegee』はリリースした直後には記事に書かずにはいられないほど、アルバムの世界に没入したんだけど、『Ninth Peel』はそこまでの熱量でアルバムの世界に入り込めない自分がいたのだった。

曲が悪いとかそういう話ではなく、アルバムとしてのロマンが少し薄味に感じてしまったのだ。

これはUNISON SQUARE GARDENがどうこうだけではなく、自分があの頃よりも色んな音楽を聴くようになったり、自分の生活環境が変わって「ひとつのアルバムを聴く時間」に変化が生じたことも影響しているとは思う。

でも、それを差し引いても、『Patrick Vegee』に熱中したあの感じは、『Ninth Peel』になかったのだった。

自分にとって良いと感じるアルバムは、曲順や曲間といった構成力と編集力が全てのひとつの軸ですーっと通っている心地を覚えること。

そういうアルバムは同じ楽曲でも、単品で聴くのとアルバムの流れで聴くのではまったく違う輝きを放つんだけど、今作はそういう”匂い”をあまり感じられなかったのだった。

でも、『Ninth Peel』を何度か聴いているうちに感じることが、あった。

そもそも『Ninth Peel』は、『Patrick Vegee』と同じ方向性から聴くべきでアルバムではないんだな、と。

これらの作品はまったく違った美学や発想で作られた作品なんだな、と。

なので、『MODE MOOD MODE』や『Patrick Vegee』と違った角度で作品を感じることで、『Ninth Peel』のアルバムの魅力が溢れてくる。

そのことに気づき始めたのである。

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『Ninth Peel』の話

『Ninth Peel』のアルバムにいくつかの特色がある。

そのうちのひとつが、アルバムの最初の歌である「スペースシャトル・ララバイ」と、最後の歌である「フレーズボトル・バイバイ」がどこまでもシンプルなギターロックであるということだ。

近年はやれTikTokだとか、やれライブで一緒に盛り上がれる楽曲だとか、クズ男が主人公の恋愛ソングを歌った方がバズるとか、イントロはない方が良いとか、余計な間奏はなるべく削った方がいいとか、売れるためのフォーマットが色々出揃いがちな昨今である。

サウンドがかっこいいバンドでも平気でイントロは削ったり、上記のフォーマットをなぞった歌をリリースすることも多い。

でも、UNISON SQUARE GARDENはどこまでも我を貫く。

「スペースシャトル・ララバイ」こそ、サビ始まるためにボーカルで楽曲がスタートするが、サウンドの質感もバンドアンサンブルの感じも楽曲の構成のあり方も、我が道を突き進んでいる。

あえて指針があるとすれば、バンドがバンドのままで、ライブで楽曲を披露すると、かっこよくなりそうな感じの音が鳴っている、というくらいであろうか。

そして、アルバムを聴いていると強く意識をもっていかれたのが、ボーカル以上に存在感を示すドラムの音だった。

もともとUNISON SQUARE GARDENはシャープかつ鋭利なバンドアンサンブルが魅力なバンドだと思うんだけど、今作ではよりドラムが「表現」している印象を受けたのだ。

「カオスが極まる」も、そんな楽曲のひとつだと思う。

バンドによっては、ボーカルのみスポットを当てるようなアレンジを詰めるバンドも多い中で、ドラムがゴリゴリに「表現」を行い、様々なアプローチを圧倒的な熱量で披露していくのだ。

そのため、顔も声も聞こえないはずなのに、不思議とドラムの表情そのものが見えてくるのである。

「フレーズボトル・バイバイ」は鈴木貴雄のカウントで楽曲がはじめっているっぽいが、そういう部分を差し引いてもドラムがぐいぐい表現をしていってる。

良い意味で、主役の顔をして楽曲を進行させていく瞬間すら覚える。

ドラムって、縁の下の力持ちであり、表に顔を出すというよりは、裏でボーカルやギターといった主役を支えるようにする体制が、わりと普通だと思う。

でも、『Ninth Peel』というアルバムでは斎藤と主役を争うかのごとく、バチバチにサウンドをぶちかましていくのだ。

これは、「スペースシャトル・ララバイ」や「フレーズボトル・バイバイ」でドラムがどういう音を、どれくらいのボリュームで、どういうグルーヴで鳴らしているのかを追って聴くと、より実感することだと思う。

そして、ボーカルだろうが、ドラムだろうが、関係なく各々が「表現」していく中で、楽曲はどこまでもロックの要素を研ぎ澄ませている心地を覚えるのだ。

「フレーズボトル・バイバイ」と「スペースシャトル・ララバイ」は、バンド以外に余計な音が入っていないからこそ、そのことをよりストレートに実感する。

でも、「Numbness like a ginger」のようなシティーな歌でも、「もう君に会えない」でも、意外と様相は変わっていなくて、楽曲の世界観を壊さない範疇でそれぞれのメンバーがバチバチにやっていることを感じる。

・・・ということを考えたとき、『Ninth Peel』って、単純な構成力と編集力で魅せるアルバムではないし、そこを焦点に当てて楽しむ作品ではないことを感じたのだった。

あえて言えば、UNISON SQUARE GARDENというバンドのそのもの「表現」をより立体化させた作品なんだな、ということを感じたのだった。

『MODE MOOD MODE』や『Patrick Vegee』はミステリー小説とか伏線を貼って物語で魅せるタイプの作品なのだとすれば、『Ninth Peel』は3D映画的な要素に近い作品なのだ、と思った。

例えば、3D映画の場合でも、軸となる映画のストーリーにもこだわっている。

でも、ストーリーだけで見せるのではなく、ストーリーを食ってしまってもいいから、3D的なギミックでも魅了させようと、他の要素も研ぎ澄ませるはずだ。

UNISON SQUARE GARDENの今作もそうで、田淵智也が作る楽曲がどれも良いという前提はあって、それを時に躍動的に時にセンチメンタルに歌いこなす斎藤宏介のボーカルが素晴らしいという前提はあって、でもそこで「表現」を完結させるのではなく、同じ温度感でドラムもオラオラで「表現」していくアグレシッブさがある。

他のバンドって、スポットを当てる場所をわざと調整する。

ボーカルを輝かせるのが一番だと思ったら、そういう構成で楽曲を作る。

バンドのグルーヴで魅せるのが一番だと思ったら、そういうバランスで音を鳴らす。

でも、UNISON SQUARE GARDENの「表現」は、安易にひとつに絞られない。

いや、ライブでかっこよくする、という指針はあるかもだが、それは指針であって、スポットをひとつにしないで、各々がゴリゴリに指し示す心地を覚えたのだった。

まとめに替えて

『Ninth Peel』とは、スプラトゥーンのトリカラマッチみたいなアルバムなのかもしれない。

三者三様で、アルバムという魅力の陣地を塗りあっているイメージ。

楽曲によってギタボ陣営の塗りが大きくなることもあれば、ベースおよび作詞作曲陣営の塗りが大きくなることもある。

でも、油断しているとドラムがスペシャルウェポンを使って、一気に魅力という名の陣地をひっくり返していく・・・。

そんな良い意味での三人のバチバチ具合が痕跡になった作品が、『Ninth Peel』というアルバムなのではないか。

最終的に三人がバチバチにやり合い、お互いのかっこよさが際立つ「フレーズボトル・バイバイ」では、”引き分け”となってゲーム終了。

そういう類の、そういうかっこよさのアルバムなのではないか。

そんなことを思うのである。

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