特定のニュースについての話ではなく、色んなニュースに触れながらぼんやりと思ったことを言葉にしてみたい。
なんというか、今のSNSって常に「正解」をもとめて、議論している節がある。きっとどんなトピックにも「最適な回答」はあるし、「社会」とか「世の中の理想」を膨らませて考えたうえでの「最適解」を考える必要性は常にあると思う。
でも、それ以上に個々には生活があって、個々の規模感での「社会」との接続ってあると思う。SNSが普及したことで、エヴァンゲリオンよろしく、個人の悩みがそのまま世界の存亡と地続きになるみたいな感覚で、あまりにも強引に「世界」と接続したうえでの最適解を考えがちだ。もちろんそれは大事だけど、でもその前に「個々の生活」とか「個人規模感の社会」、ちゃんと健全にできている?みたいな問いを置くことを忘れたまま突き進んでいる気がするのである。
例えばさ、エンタメで語られる「社会」とか「理想」も重要だけど、きっとそのエンタメの作り手には一生想像できない部分での「個々の生活」について、個々それぞれの思いの巡らせが、重要だよなーって思う。
子どもがいる父親母親が親目線で考えることと、明日の食い扶持を考えないといけないフリーランスがマジで優先して考えないといけないことでは、どうしても違いが生まれる。当然ながら「個々の生活」で考えるべき優先事項は違うし、それぞれのレイヤーの中で共有できる文化とかバックボーンって思いの外違う。
特に大人になれば、マジで身を置いている場所の違いで、想像以上に「考え」や「価値観」って変化していく。学生時代は「似たもの同士」だった相手とも、働いて何十年も経てば、それぞれの場所でアップデートされた価値観の違いが、思いの外大きくなっていることもある。
だからこそ、仮に異なるレイヤーの人と話す場合は、その最初の一歩を丁寧に汲み取る必要があるわけで、「エンタメの享受」ひとつとっても、個人にとって最適なエンタメの距離感があるよなーってことをずっと考えるわけだ。
こういう佇まいとか蓄積って、どうしても派手にはならない。
でも、派手ではないなりの「しんどさ」も確かにあって、何とも言えないものがずーっとくすぶり続けるんだけど、それでも、そういう必死で紡いだ連続性の中にこそ尊さが宿っていく、みたいな確信もぼんやりと抱くのだ。
なんというか、SNSの登場によって、個々の物事に対する距離感が良くも悪くも、すごくズレてしまうことが多くなったなーなんてことも感じる。
本来ならもっと遠くにあるべきだったはずのものが過剰に近く見えてしまったり、本来ならもっと近くにあったはずのものが遠くに行ってしまったりする。言ってしまえば「身の丈に合わない情報」に触れやすくなってしまっているというか。
お互いの考え方の交錯の仕方でもそういうことを感じるし、そもそも個々が考えるべき事柄みたいなことでも、そういうことを感じることがある。
絶対に交わることがなかったはずの考えが、簡単に交錯するようになった。片方の極端な考え方を持つ人のところに、もう片方の極端な考え方がダイレクトに届いてしまう。本来ならもっと整理されてから、もっとマイルドな形になってから届くはずのことが、とんでもない状態のままで人の目に触れる。そこからまた、色んな角度から色んな矢印が交錯していく。
例えるなら、すんごい風呂敷の大きなことを考える前に、まずは隣人だったり、今自分がいる場所を良くしていくことに専念しろよ的な。とはいえ、「世界平和」までくると、それは自分の生活と密接に関わる話なので、「遠い話」とは思わない。でも、そういうところともまた違った、その人からすると「遠い距離のこと」ってあると思っていて、そこに引っ張られすぎているとしたら良くないよなーみたいなことってあると思うのだ。
だからこそ、マジで、自分の本来いるべき距離にいる人に向けて、最適なコミュニケーションを取るのがいいのかなーと思う。
いわゆる家族でもいいし、友達でもいい。
そんな大げさな関係性の人ではないのだとしたら、普段自分の生活圏内にいるお店の人が、ほんのちょっと快適に仕事をできるなーくらいの接し方を意識するくらいの、距離感。
勝手に名前を出して恐縮だが、この距離感の話でいうと、星野源の近年の作品に宿る妙な「諦念」にも、近しいものを覚えるというか。
もっと「世界」に目を向けていたときのような<派手さ>はないけれど、より現実的な眼差しになっているからこそ、自分的にはより刺さるところが増えた。そんな独特の佇まいだったりする次第。
そうやって距離のことを考えていくと、今度は何を基準にすればいいんだろう、という話になる。最近「何を信用したらいいんだろう」と、途方に暮れている人も、わりとよくみたりする。何が本当で、何が嘘かもうわからん、的な。
「何を信用したらいいんだろう」「何を羅針盤にしたらいいんだろう」
自分的な考えでいうと、そういうときに確かにあるのは、いつでも「行動」の側だなーと思う。個人的に好きなバンドであるBRAHMANのMCの中で、「行動こそ現実」というメッセージを発信していたことがあったけど、ふいにその言葉を思い出すことがあるのだ。
「どんな言葉を言っていたのか」「口でどんなことを言っていたのか」。それも時にして重要だし、どういう言葉でコミュニケーションを取るのかも大切ではある。でも、それ以上に「何をしたのか」「どんな行動をしたのか」の大切さを感じるよな、と。
確かに、ひとつの行動に対する解釈だって、受け手によって異なるとは思う。
あるいは、ひとつの行動を行ったあとに、その人が何を言うのか、みたいなところで、その行動の意味が変容することだってある。
でも、本質的にあるのは時間を使ってやったことそのものであり、人との関わりの中で言うなら、やっぱりその人の「行動」に着目しつつ、その「行動」を羅針盤にすると、想像以上の<間違い>って減るよなーって思うのだ。
ということまで考えていくとき、個々の生活にスポットを当てていくと、自分の「届く」距離にいる人に対して、適切な「行動」をとっていくことの積み重ねが大切なんだろうなーなんてことをふと思う。
油断して、その指針からはみ出した行動をしているなーという部分があったら、気づいたタイミングで、そこに対してはきちんとチューニングして、また明日も続く日々を積み重ねていく。その繰り返し。
別に何があったってわけではないんだけど、そういうことの大切さをふと感じた、そんな7月の末。

