ワーキャーファンに囲まれることと、正しいファンとは何かの考察

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ハイツ友の会が解散する際に寄せたコメントが話題になっている。まあ、ここではその文章の真意や是非について語ることはしないんだけど、その文章を読みながら、思うところがあったのは確かだった。なので、そこからぼんやりと思ったことのひとつを抜け出して言葉にして見たい。

というのも、どんな芸事の人であれ「自分が理想としていた状態とは違う需要のされ方」が生じているケースって、きっと一定数あるんだろうなーと思ったのだ。

特に自分は音楽のライブによくいくことがあって、ライブイベントを主催することがあって、色んなアーティストの色んなオーディエンスを観てきたつもりなんだけど、音楽のライブでもそういう状態はわりとよくみるからだ。まあ、あんまり特定のアーティストの名前を出すとアレなのでそういうことはいちいち言明しないが、「そのアーティストのことを、まっすぐに”アイドル”として推している人ばかりに囲まれているシーン」を目撃したことは確かに何度もある。

男女問わず。

ジャンル問わず。

そういう状態をみて、アーティスト側はどう思っているのか。それはわからない。気にしていない人もいれば、それを”チャンス”と思っている人もいるだろうし、意図的にそういう空気になるように”仕込んでいる”人もいるだろおうし、もっと素直に自分の芸事をみてほしいのに、そことは関係のない部分でワーキャーされているなんて・・・・・・と、そんなふうに感じる人もいるかもしれない。

まあ、芸事を仕事と捉えた場合、人気商売にどうしてもなる以上、人気が出るのであれば、理由はなんであれいいじゃないか、という指摘もある。が、その一方で、自分の理想とのギャップで苦悩を覚える人もいると思うし、ここに、性差的な話だったり、性差による現場の空気とか環境の変化とかまで入れ込んで語ると、色んな話をすることはできる。まあ、そこまで話をする場合、相当に慎重に言葉を積み上げる必要があるので、ここでは割愛するけど、きっとアーティストごとに想いはあるんだろうなーとも思う。

一方、ファン視点で語ると、そもそも確かに「色んな入り方」があるよなーと思うのだ。

それこそ、顔でそのアーティストのことが好きになるケースだってあるかもしれないし、作品から好きになった結果、その人の存在そのものが好きになったというケースだってあると思う。

こと音楽に関していえば、意外と「音楽だけが好き」というケースは少ないのかもしれない、と思う。特定のアーティストのことをしっかり応援している人は、パーソナル部分だったり、その人の人間性だったり、ファッション性だったり、その人の見た目だったり、音楽以外の要素も好きというケースが多いように思うからだ。

ただ、仮にワーキャーなファンがいて、アーティストがそのワーキャーのものに辟易する事象があるとしたら、きっとその”ワーキャー”の質が起因しているケースが多いのかなーなんてことを思う自分。

ワーキャーが過激化することで、とんでもない迷惑が行為があったりとか。

SNSまわりで、げんねりするような何かが生じたりとか。

アーティストによって、その感度は変わると思うので、具体的な行為は想像の範疇になるけれど、ファンの母数が増えると、確かにそういう辟易してしまう場面の遭遇率は増えるのかなーと思う。確かにそういう人に支えられているからこその自分もいるけれど、辟易の積み上げによって、いつしかそのアーティストのMPが少しずつ下がっていて、少しずつぐわあーとなるケースもあるのかなーなんて思うのだ。

ワーキャーだからとか、「何が理由で好き」だとか。

そういうこと自体は本質ではなくて。

「ファンであるということ」を免罪符にして、対人間として見た時に、あまりにもそのアーティストの人間性を軽視した振る舞いをするか否か。

そこが、大きいのかなーなんてことを思う。

いやまあ、自分はアーティストじゃないので、ぜんぶ想像でしかない話なんだけどね。

ただ、音楽好きの一人として、色んなアーティストのファン(というほど誰かをめっちゃ追っているわけではないけれど)の一人として、そういうモラルというか、マナーというか、そういう要素の大切さを改めて感じた瞬間というか。

そういえば、違う記事では「推しの顔に泥を塗らないようにすることが大事」なんてことを書いたんだけど、そことも通ずる話なのかなーなんて思っている、そんな夜。

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