米津玄師の歌詞はすぐにどこにも行けなくなる。

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「LOSER」も「パンダヒーロー」も「砂の惑星」も「ホープランド」でと、どこにも行けなくて困ってる描写が歌詞でなされる。

本当に多くの歌で米津玄師はどこにも行けなくなっている。

少し可哀想になってくる。

一方、藤くんが歌詞を書くBUMPの歌では常に迷い続けてることがわかる。

「ダイヤモンド」も「Stage of the ground 」も「メロディーフラッグ」も「ロストマン」も「オンリーロンリーグローリー 」も「花の名」も「arrows」も「三ツ星カルテット」も「セントエルモの火」も「グッドラックも」「Hello,world!」も「流星群」も「アリア」も
「記念撮影」でも迷っている。

たまに迷ったままでいいやと開き直ることもあるが、迷っていることに変わりはない。

あまりの迷いっぷりに少し可哀想になってくる。

米津玄師と藤原基央といい、前髪でおでこを隠す奴はなぜこうも方向音痴の奴が多いのか?

そう文句も言いたくなるが、それは少し違う。

彼らは方向音痴だからどこにも行けなくなったり、迷子になってしまったわけではないのだ。

この記事では、そのことを少し考えてみたいと思う。

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なぜ彼らは方向音痴化するのか?

米津も藤くんも多くのリスナーの共感を得る歌詞を書いていることはご存知だと思うが、二人とも似たような方向性に歌詞が導かれてるのは興味深いところである。

もちろん、米津玄師がBUMPの大きな影響を受けているのは周知の通りだが、それにしたって二人とも歌詞において「ゴールを見失っている」のは興味深いところである。

なぜ、こういうことになるのか?

もちろん、彼らがこういう言葉を使うことがクセになってしまうのはその通りだと思うが、多くの聴き手も「ゴールを見失ってる」から、こういう歌詞が生まれてしまう、という構造はあると思うのだ。

僕なんかもそうだが、今の10代20代は生まれたときから、日本は不景気不景気と言われ続けてきた。

しかも、未来になればなるほど日本は貧乏になっていくと言われ続け、年金制度も医療保険の仕組みも破綻するし、超高齢化社会の重圧だけ受けていくんだ、みたいなことを言われ続けてきた。

政治に期待もできないし、夢もないし、希望もない。かといって国内で戦争が起こることもなさそうだし、多くを望まなければ衣食住には困らない。

そんな国で、生きることを強いられてきた。

誰も口にしなけれど、心の奥底ではこんなんじゃどこにも行けないし、迷子になりっぱなしだよ、と思っていたわけだ。

そんなどうしようもなさがあったからこそ、米津も藤くんも歌詞において「ゴールを見失ってしまってばかりだった」し、そういう歌詞こそが人々の共感を集めてしまうことになったわけだ。

だって、イケイケドンドンな好景気だったら、こんな歌詞は、マイノリティーのまま消化されちゃってただろうし。

話は変わるけれど、恋愛作品も「君の名は。」とか「逃げ恥」みたいに、恋に落ちる過程はすっ飛ばして、いきなり運命の人が決まってる「迷う必要のないドラマ」ばかりがヒットしてるのもそういう所以なのかなーと勝手に思っている。わかんないけども。

まとめ

日本自体が閉塞感がある。

だから、米津玄師はどこにも行けなくなるし、藤くんは迷ってばかりになる。

米津玄師がどこかに行けたときこそ、日本はひとつ何かを更新したということになるんだろうし、その時こそ、ピースサインな未来になるのかなーなんて、そんな勝手なことを思う次第。

関連記事:BUMPの藤原基央の歌詞の変化について。リボンからバトルクライまで参照

関連記事:米津玄師の「アイネクライネ」歌詞の意味、内容、解説、考察!

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