藤井風の「満ちてゆく」に感じた”深さ”の正体
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近年の藤井風の楽曲を聴くと、毎回思うことがある。
「深っ・・・」
そんな感想だ。
「深い」という感想だと逆に捉え方が浅く聞こえてしまうかもしれないが、近年の作品は藤井風の哲学を歌詞の中にしっかり反映している印象を受けるわけだ。
いわゆるポップスの場合、「自分が言いたいこと」よりも、「届けたい人に届けたい言葉」を優先するケースが多い。
例えばであるが、こういう世代のこういう価値観をもった人に自分は音楽を届けたいと思っているので、そういう層に「伝わる言葉」を意図的に選んで歌詞を作る・・・みたいな。
なので、仮に今は別の話がしたかったとしても、「伝わる言葉」が濁る場合は今話したいことは削ぎ落として、歌詞を構築するケースもあるように思うのだ。
これは、仕方がないことだ。
音楽というのは、人に受け止められて初めて成立するものである以上、届けて側の心情も一定数汲み取りながら、言葉を紡ぐ必要があるから。
しかしながら、藤井風はそういうベクトルとはちょっと違う優先度で、言葉を紡いでいる印象を受けるのだ。
別に、藤井風はリスナーのことを無視して、言葉を紡いでいるとは思っていない。
むしろ、彼以上に受け手にも真摯になりながら、言葉を紡いでいるアーティストもいないように思うのだ。
ただ、自分はこういう層のファンが多いから、狙ってこういう言葉を使おう、こういうテーマを歌おう、みたいな打算を感じないのだ。
「満ちてゆく」を聴いたときも、そんなことを感じた自分。
もう少し具体的に言葉にするなばら、自分が感じていること、自分が哲学としていることを、なるべくシンプルかつ深みのある眼差しで再構築して、”歌”にしている・・・そんな印象を受けるのだ。
そういう印象を持ったからこそ、自分は藤井風の楽曲を聴いたときに、思わず「深っ・・・」と呟いてしまったのである。
もちろん、タイアップソングであり、ある程度リリースタイミングが決まった中で作成した楽曲だとは思うけれど、そういう楽曲外の事情を感じさせない空気感を持ち合わせていたのである。
「満ちてゆく」の歌詞の話
というわけで、まずは歌詞の話をしてみたい。
この歌が印象的なのは、二人称が登場せず、登場する一人称は「僕ら」だけであるということ。
通常、音楽の対比として僕と君、あるいは私とあなたという対立軸を作りながら、言葉を紡ぐことが多い。
そして、二人の関係性の揺れ動きや変化にスポットを当てながら、歌の起承転結を作ることが多い。
もしくは、僕や私という一人称だけでぐいぐい楽曲を進ませて、自分の内面だったり、感情の変化にスポットを当てながら、特定のテーマや想いを克明に描くパターンもある。
でも、概ねどちらかに分類させるようにして、歌詞を紡ぐケースが多いように感じるのだ。
そんな中で、「満ちてゆく」はそのどちらとも少し趣が違う言葉を形成している。
なぜなら、登場する人称が「僕ら」だけだから。
いや、もちろん「僕ら」という人称を分解すると、僕と君、あるいは私とあなたという要素が含まれていることはわかるわけだから、上記の話でいえば、前者の要素が強い歌ではあるとも言える。
でも、この歌って、安易に二人の関係性の変化を軸に言葉を紡いでいるかというと、そうとも言えない空気感がある。
これはラストのフレーズが
手を放す、軽くなる、満ちてゆく
上記で終わるからであるように感じる。
このフレーズ、最初は二人の関係性として使われている言葉であるようにも見えるフレーズであり、別れの物悲しさを示したフレーズであるようにも感じて聴くことができるが、楽曲が進むにつれて、それだけでは意味性がこのフレーズに帯びていくことになる。
そもそも、
「手を放す」の先にあるのが、「満ちてゆく」に繋がるのが、独特だ。
そもそも、ここでいう「満ちてゆく」とは何なのか?
そもそも、僕らという人称のあとに使われる述語が「愛でてゆく」なのだから、複雑な眼差しや感情が楽曲の中で交錯しているようにも見えるし、もっとシンプルに捉えることができる余地も歌の中にある。
ただ、愛でてゆく、の視線の先にあるのが「空」であることを考えると、そもそもこの歌が物語「僕ら」というのは、もっとスケールの大きなものであるようにも感じる。
「私」と「あなた」みたいなスケールの話ではなくて、もう少し規模感の大きなスケールも予感させられる言葉としても捉えることができるというか・・・。
ここで、「満ちてゆく」はこういうメッセージの歌詞だ!と断言するようなことはしないけれど、藤井風の視点がもっと高いところにあるような印象もあるし、そういうことを感じさせるワードチョイスや、視点で言葉が紡がれている印象があって、故に自分的にはこの楽曲にどこまでも”深さ”を感じたのだ、ということを言葉にしておきたい。
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奥深く楽曲のスケールが大きくなる展開
「満ちてゆく」でポイントだなあと感じるのは、アレンジの変化。
この歌は、冒頭はピアノの弾き語り形式でメロディーを紡いでいる。
聴き心地としては、素朴。
余計なものは削ぎ落とし、深みと甘さを持ち合わせる藤井風のボーカルを堪能することができる。
逆説的に言えば、音数的にはどこまでもシンプルなはずなのに、ここまで鮮やかで立体的な音楽世界を作り出せるところに、藤井風の表現力の凄まじさを体感することになる。
そして、1番のサビが終わり、2番のタイミングでピアノ以外の音も合流していき、ビートを刻む音やコーラスワークが挿入させるような流れとなる。
この「外部の音」を入れ込むタイミング、そして入れ込む音の種類のチョイスが絶妙で、「満ちてゆく」の世界を鮮やかなものにしていくことになる。
ここの部分って、おそらく耳で聴こえている以上に様々なトラックが用意されており、細かい調整によって、美しさに導かれているのだと思うが、あくまでも軸は藤井風の歌声。
藤井風の歌声が、どんどん輝きを放つようにアレンジがアシストをしていき、
「手を放す、軽くなる、満ちてゆく」
上記のフレーズの意味性もどんどん変化していくような心地を覚える。
それこそ、この歌を聴くという体験そのものが、
(自分が持っていた凝り固まった何らかの考えから)手を離す体験であり、
(自分が持っていた凝り固まった何らかの考えから)軽くなる体験であり、
満ちてゆく、
そんな営みでもあったと言えるのではないか。
そんな充足感も与えてくれる心地なのである。
まとめに代えて
というわけで、まとめのような言葉は少し前に記載したけれど、藤井風が新たな名曲を生み出したなーという感は強い。
一年を通して、丁寧に堪能しながら、この楽曲の良さを深めていけたらなーと思う、そんな次第。
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