Adoのボーカルが何かを破壊していた件
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自分は毎週、水曜日にざーっとその週の新譜を聴くようにしている。
別に誰かにやれと言われているわけでもないし、ノルマがあるわけでもない。
単純に新譜で良い曲あるかなーとか、今週ってどんな歌が発表されているのかーというテンションで新譜をざーっと聴くようにしているのだ。
とはいえ、本当に真面目に聴き出すと、その数って膨大になる。
なので、ざーっと聴くときは「ふむふむふむ、この人の新譜はこれか!」みたいな感じでタイトルとかアーティスト名はそこまで意識するんじゃなくて、ある種ラジオっぽいテンションで、流し聴きにも近い感じで楽曲を聴くことにしている。
で、その中で気に入った歌をプレイリストに入れて、そのプレイリストを中心にその週は音楽と戯れる・・・というのが最近の自分のスタイルになっている。
まあ、こういう聴き方をする良し悪しは当然ある。
わけだけど、年々聴きたい新譜が多くなるし、まだ名前も知らないアーティストにもアンテナを広げてみよう〜と思っていると、気がつくとこんな聴き方になってしまったのだった。
で、気がつくとアーティストたちの新譜をフラットなテンションで聴いてしまっている自分に気づく。
が、今週は速攻でそんなフラットが破壊される事案に出会った。
今週の新譜の中で、えらくボーカルの存在がでかい歌を見つけたからだ。
なんというか、サブスクで配信されている音楽って、ある種空間の中に音がこじ込められた感じがするというか、良くも悪くも聴きやすいように音が最適された心地を覚える。
ライブなんかだと、その柵がぶっ壊されるので、この歌、このえげつない音圧だったのか・・・とか、このアーティスト、思ったより声量出てないな・・・とか、良くも悪くもギャップを覚えることも多い。
んだけど、サブスクの音楽は尖りも凹みもフラットにされた状態で、作品になっていることが多い印象なのだ。
だから、飛び抜けて”ボーカルがでかい”と思うことは少ないんだけど、今週の新譜の中で一曲、どう聴いてもボーカルが枠から飛び出そうとしている勢いの歌があったのだ。
あえて言えば、強引に入れ物の中に水を入れて蓋をした結果、今にも破裂してそこから水が飛び出そうとしている感じ。
何とか枠に落とし込んでいるが、気を抜くとその枠から飛び出してしまうかもしれない予感を覚える、そんな感じなのだ。
え?
どのアーティストの歌かって?
それは、タイトルにもなっているAdoの歌だ。
Adoの「アタシは問題作」を聴くと、そんなことをついつい感じたのである。
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Adoの「アタシは問題作」について
単純に音がででかいとか、サウンドに対してボーカルのボリュームが大きい、とかとはちょっと違う。
なんかそういうボリュームのバランスを差しおいて、「アタシは問題作」を聴いていると、異常にボーカルの存在感がでかいと感じるのだ。
ボーカルの表情がとんこつラーメン感があるというか。
めっちゃ近くに顔をよせて、渾身の画面を披露しているくらい、声のひとつひとつの表情がどこまでもはっきりとしている。
何が言いたいかというと、それくらいAdoのボーカルって凄いし、パンチがあるという話だ。
Adoといえば、「うっせぇわ」や
「新時代」などで、そのボーカルの素晴らしさをたくさんの人に知らしめた屈指のシンガーである。
もともとボーカルとしてポテンシャルな高さは折り紙付きの存在だった。
ただ、「アタシは問題作」を聴いて、改めて自分はAdoの歌声、すげえなと思ってしまったのである。
アーティスト名も意識せずに新譜をだらーっと聴き流しているときも、「あ、今ボーカルの存在感がやばい歌が流れている」と感じて、別の作業の手を止めてしまい、その歌声に意識を奪われてしまう破壊力が、そこに内在していたのだ。
2023年もAdoは無二性のある存在感で、シーンに存在感を際立たせるのだろうなーと改めて感じたである。
まとめに替えて
そういう意味でいうと、確かに”問題作”と言っても過言ではない”際立つ”がこの歌にはあるなーと思う。
「アタシは問題作」のようなビート感の楽曲って、他のアーティストでも歌うことはあると思う。
でも、こういうテイストの楽曲のボーカルって、わりと優しい歌声の人が多いイメージで。
歌声の表情だけで言えば、草食系の人もわりと多い気がするのだが、Adoの歌声はゴリゴリに肉食というか。
全感情がむき出しになり、歌声が持つ刃がゴリゴリに見え隠れしているのだ。
そういう聞き応えを指さして、”問題作”と言えるのではないかーなんてことをふと思っている、そんな次第。
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