クリープハイプを好きな理由について

前説

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ふと自分のブログにある、各年度ごとの年間アルバムランキングなる記事を振り返っていると、あることに気がついた。

僕がブログを初めたのは2015年からなんだけど、過去の年間アルバムランキングで、2作品以上トップ10にランクインしていたバンドは、全部で4組だけだったのだ。

そのバンドとはUNISON SQUARE GARDEN、04 Limited Sazabys、cero、そしてクリープハイプである。

いわゆる栞組が揃っているあたりに面白さを感じるとともに、そんな大好きなクリープハイプについての文章はあまり書いてこなかったので、この記事では、そんなクリープハイプについて改めて書いてみたい。

本編

クリープハイプの良さ

クリープハイプの良さを一言で言ってしまえば、あの歌詞をあの声とあのサウンドで歌うから、という部分にあると思っている。

いや、ほんと、なんであんなにも大きくなったバンドが、あんなに尖ったバンドサウンドを鳴らせるんだよ、って毎回驚きになる。

例えば、この歌。

とても人間味の溢れるあの歌詞を、ヒリヒリとしたバンドサウンドで歌い上げている。

そうすることで、よりその言葉に胸迫るものが生まれる。

けれど、そういうサウンド「だけ」に留まらないのがクリープハイプの良さだったりする。

こういうアレンジ、アプローチもできるんだという驚きの楽曲であり、Bメロのリズムテンポを変えるアプローチには眼を見張るものがあった。

でも逆に言えば、こういう楽曲パターン「だけ」にも行かないところが、すごく良いわけで。

未だに、地下室的な匂いのするバンドサウンドに拘る臭さもあるし、でも普通のバンドとは違うアプローチをしてくる器量もあって。

この何とも言えないバランス感覚がクリープハイプをずっと聴いてしまいたくなる理由のひとつなんだろうなーと思うのだ。

洋楽の匂いのしなささ

少し話が変わるんだけど、先ほどのアルバムランキングでユニゾン、クリープ、フォーリミがノミネートされているところに一つ、自分の中で共通点があると思っている。

それは「洋楽の香りがしないのに、オリジナリティーを感じる」というものである。

どういうことか?

バンド音楽を構築するうえで、ポイントになるのが洋楽の向き合い方であるように思うのだ。

音楽をクリエイトするためにはある程度インプットする作業が必要なはずで、ロックのアレンジをインプットする場合、参照点として洋楽と向き合うバンドが多い。

というか、音楽を掘り下げる中で洋楽にハマり、影響されるバンドが多いわけだ。

もちろん、最近のロックバンドは日本のバンドのみを参照点にしていることも多く、かつ、その参照点が、わりと「最近の」バンドだけに絞られている場合も多い。

それ自体には良いも悪いもないんだけど、ただ、どうしても参照点が内向きな場合、そのバンドが作る音は、既視感がある、参照点が見え見えの、言ってしまえばオリジナリティーがない音楽である場合が多くなる。

劣化版マイヘアみたいなバンドや、やたらとandymoriっぽさを感じるバンドが多いのは、そういう背景があるように思う。

だから、オリジナリティーを出す上で、洋楽の参照点は重要な要素になるし、基本的には、洋楽の流行りを日本の音楽にどう取り入れるかが、個性を出すうえで重要な要素なんじゃないかと僕は思っている。

けれど。

前述した3つのバンドは、そういうパターンとは違うように感じるのだ。

洋楽の香りはしないし、おそらく(ほとんど)洋楽を参照点にしていない。

けれど、音楽にまぎれもないオリジナリティーを感じる、そんなバンドなのである。

クリープハイプの場合、そのオリジナリティーをあえて言葉にするとこんな感じかなーと思う。

ゆず的なザ・ポップスなメロディーの匂いを感じさせつつも、サウンドはアングラ的オルタナ要素がある。

ベースにどこか捻れがあるのに、さらに、それ以外のひとつひとつの要素でも「普通のバンドとは違う何か」を感じさせる、そんなバンド。

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歌詞の話

例えば、歌詞。

ここでわざわざ言うまでもなく、クリープハイプの歌詞は個性的である。

この歌詞が個性的、というのも僕なりに説明するならば、こんな風に言えるかなーと。

人間の内面性を描く場合、わりと主流になりがちなのがBUMP的擬人化系のパターンか、銀杏的(あるいはRAD的)身も蓋もなく直接的に大げさに描くパターン。

どちらかに傾倒したり、どちらかをルーツにして発展させることが多いように感じるのだ。

けれど、クリープハイプはそれともまた違うように感じる。

また別の角度で、人の内面を描いてみせるのだ。

比喩的なんだけど、ただの比喩ではないというか。

身も蓋もなく描いてみせているようで、どこか比喩的な「匂わせ」も巧みに使っているというか。

これは「左耳」の頃から「栞」に至るまで、通底した尾崎世界観のセンスであるように感じる。

この独特のセンスとバランスの取り方にグッときてしまうため、ありがちで退屈な話を歌詞にしていたとしても、なんだか切ない気持ちになってしまうのだ。

バランスの取り方

先ほどの話にも通ずるが、クリープハイプの凄さは、バランスの取り方の絶妙さにもあると思う。

普通、バンドのバランスの取り方って、邦楽と洋楽のバランスとか、ポップスとロックのバランスとかに重点化されるように思う。

でも、クリープハイプが取っているバランスのそこじゃない。

王道的なものとアングラ的なもの。

そこのバランスに、力を入れているように感じのだ。

バンドマンの私信のような歌を歌いつつも、気がついたらおっさんから女子高生まで当てはまるような人間の内面をえぐり取る歌を歌ってみせているのは、その結果のように感じるのだ。

ここまで的確で、世代を超えて内面を描いてみせているのはクリープハイプだけなんじゃないかなーと思っている。まあ、完全なる俺の主観ではあるが。

あと、もうひとつ言いたい。

今って、世がポリティコレクト的になっている。

少しでも尖ったことを言えばすぐに反感を買うし、ネットでは炎上の沼が待ち構えている。

だから、ツッコミを避けるような物言いはやめて、共感してもらえるような当たり障りないことしか言えない、言いづらい世の中になっている。

けれど、尾崎世界観は、そんな潮流は時たま無視をして、きちんと怒りとも向き合い、言葉にしてみせたりする。

言ってはいけないことにもあえて首を突っ込み、ツッコミを無視して、つっこみの言葉を紡いだりするのだ。

こういう覚悟の持ち方ができているバンドマンって、少ないように思う。

特に35歳以下のバンドマンになると、本当に数えるほどしかいないよなーなんて思う。

そういう意味でも、クリープハイプは偉大だよなーなんて思う。

まとめ

結論、何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。

でも、クリープハイプの音楽って、好きなんだよなーってこと。

これだけは間違いない。

これ以上余計なことを言えば、単なる蛇足にしかならないので、この記事ではここで締めたいと思う。

ガバマンな記事で申し訳ない。

許してほしい。

関連記事:クリープハイプ「泣きたくなるほど嬉しい日々に」の感想と個人的解釈。

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