前説

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クリープハイプって意図的に挑発的な下ネタを披露することがある。

官能的なワードを使って、独特の言葉遊びをすることがよくある。

それがクリープハイプの良さでもあり、ある種のあざとさでもある。

だってさ、今日日、思春期の中学生男子ですらそこまで勿体ぶらないぜというテンションで、他のバンドはあまり口にしないような下ネタを口にするのだから。

尾崎世界観だから成立しているけれど、職場の上司が言ってたら絶対にアウトな言葉を口にするわけだけど、どうしても自分だったらアウトにならんだろう、というあざとさを自分はそこに見てしまうわけである。

良いとか悪いとかではなく、ただただ「また、やりやがったな(ニヤリ)」みたいな気持ちになってしまうわけである。

ただ、ニヤリとすることがある一方で、その笑みが苦笑いに変わってしまうこともないといえば、ないことはない。

ずーっとクリープハイプをみていると、また思わせぶりな下ネタを吐いているぜ・・・と思ってしまうこともあるわけだ。

クリープの有名な某コールアンドレスポースだって、毎年のように耳にしていると、さすがにお腹いっぱいになってしまうこともある。

アニメを連続で視聴していたら、最初は感動していたオープニングムービーがだんだん飛ばしてしまうようになる感情と似ているかもしれない。

オチがわかっている下ネタを見続けるというのも、不思議な感情だよなーと思うわけだ。

おまけに、あたかもこれ、新鮮だろ?みたいな顔をして、「恥ずかしいことしちゃっているんだぜ、今のおまえら」みたいなテンションのアプローチをされると、むむむむむな感情が色濃くなってしまうのも無理からぬことである。

いつしか一周回って、いや、これを「恥ずかしい」と思っていることの方が、逆に恥ずかしいのではないか、と思うことさえ生まれたり生まれなかったり。

土台にある音楽が好きかどうかは別にして、下ネタに対する温度感については、そう思うこともあるわけだ。

正直なことを言えば。

だからこそ。

今年の夏の某日、18禁なMVが解禁されたらしいぜと話題になってきたとき、少し不安な気持ちがあった。

これを「エロい」というテンションで言っちゃうのは逆に恥ずかしいでしょ、みたいなテンションのMVが公開されているのではないかと、勝手ながらそういう不安が駆け巡ったのである。

自分がピュアな10代ならそれはそれで新鮮でいいんだろうけど、こちとら銀杏BOYZをリアルタイムで通ってきた人間だ。

おちんちんだって、クレヨンしんちゃんでたくさん見てきた我々世代からすれば、今更ライトな下ネタを披露されても何を思えばいいんだ・・・みたいな気持ちもあったわけだ。

おっかなびっくり、MVを観た。

その感想を、この記事で書いてみたい。

本編

「キケンナアソビ」について

今となってはAV女優がTwitterの大喜利を行って圧倒的な存在感を示す世の中になった。

あるいは、「おちんぽ」を口癖にしている大手Twitterアカウントだって存在している世界線だ。

ネット社会となった今、エロというコンテンツはそう遠いものではなくなってしまった。

アングラなエロだって検索すれば、うじゃうじゃ出てくる世の中である。

そういう世界で、今更何が18禁だよと思ってしまっていたわけだ。

だから、MVをみて、自分がこんな気持ちになるとは思わなかった。

エ、エロいぞ・・・・これ・・・・。

どういう風に言葉にしたらいいのかわからんけど、紛れもなくあのMVに自分は「エロさ」を感じた。

それなりに年を重ねている人間のくせにこんなことを言うのもおかしな話だが、観てはいけないものをみてしまった気分になった。

例えるなら、テレビでラブシーンを観てしまったときの気持ちに似ているかもしれない。

なんというか、同じアダルトコンテンツでもネットでみるのと、うっかりテレビで見てしまうのとでは感じ方がまったく違う。

普段はお目にかからない場所でみたそういうコンテンツって、強烈な印象を脳内に焼き付ける。

クリープハイプの「キケンナアソビ」のMVには、そういう衝撃を感じたのだった。

かつ、あの作品には、たしかにクリープハイプならではのエロがそこにあったのだ。

雅というか官能的というか、どう言えばいいのかわからないけれど、俗っぽいふりして繊細な、そういうエロさをそこにみたのである。

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エロだけではない作家性

クリープハイプって下ネタを積極的に採用するけれど、そこにはきっちり美学が投影されている。

その美学を文学性と置き換えてもいいかもしれないが、紛れもなくそこに作家性が宿っていたのである。

だからこそ、トータルでみると、単なるエロで終わらないのだ。

クリープハイプの歌って、ポップソングだろうが、エロをテーマにした歌だろうが、通底した切なさが宿っている。

「エロ」というのはあくまでも表面的な要素で、そういう要素を飛び道具として使うからこそ、繊細な感情がそこに描かれていることが多い。

破滅した人間が主人公だからこそ、そこでこぼれていく内側の感情が色濃く見えていくというか。

そういう容赦の無さがクリープハイプの歌には臆面もなく描かれているのだ。

あと。

この歌がアップテンポなアゲアゲソングではなく、ミディアムなテンポで繰り出す哀愁ソングであるところが、それをより強くさせているんだろうなーと思う。

まとめ

まあ、尾崎世界観のことだから、ファンを良い意味で「裏切って」驚かせようと考えた結果、あえてこういう直球的なエロを描いたのかなーなんて思う。

もしかしたら、それ以上も以下もないのかもしれないなんてことも思う。

内実はどうだっていい。

他のバンドにはない、こういう魅せ方もできるからこそ、クリープハイプってバンドは面白いし、ワクワクするのだ。

ポリコレ的な世の中だからこそ、クリープハイプの尖り方がどこまでも眩しくて、愛おしいのである。

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