前説
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SEKAI NO OWARIが2月27日にリリースした約4年ぶりのフルアルバム『Eye』と『Lip』。
このアルバムがすごぶる良い。
なぜ、そのアルバムがすごぶる良いと思うのか?
この記事ではそのことについて書いていきたい。
本編
サウンドの幅が広すぎる
セカオワって本当にサウンドが幅広い。
しかもその幅広さが他のバンドと桁が違う。
今作だと、かなりクラシック的な要素の入った歌も収録されていたりする。
わりとロックやダンスミュージックまでは足を伸ばすことがあっても、クラシックの領域まで立ち入り、それを「自分たちの音」にまで組み込んでしまうバンドは、正直そこまでいないと思う。
それぞれのメンバーの音楽的な知識やアイデアが半端ないからこそ、EDMをやりつつもクラシックも取り入れるみたいな、バランスを取ることができるのだろうなーと思う。
なんなら、「Mr.Heartache」はエレクトロなナンバーだし、「Hey Ho」はマーチングバンドの装いだし、普通のバンドではあり得ない音楽の広げ方をしている。
ジャンルレスな歌に対応しているアイドルですら、こんなにも幅広い楽曲をアルバムのなかで歌い切る人はいないと思う。
何より凄いのは、そういう多彩な音にアプローチしながらも、「着させられている感」が一切ないこと。
例えば、バンドが自分たちの音を変えたくて外部アレンジャーを招聘することはよくある。
もちろん、アレンジャーが入る分、音はリッチになっていくし、劇的なアレンジが楽曲にハマっていることも多い。
が、好き嫌いは抜きにして、その音を聴くと、なんだか「着させられている感」が出てしまうことが多いこと多いこと。
それは単にそのバンドのお化粧前を知っているからなのかもしれないが、それでもそういう豪華な音に違和感を感じてしまうことがよくある。
なんなら、そのアレンジ、別にいらなくね?と思ってしまうことすらある。
もしかしたら、そのバンドが持つ見えない魅力がその豪華なアレンジとぶつかってしまっているのかもしれないし、豪華なアレンジになったが故に、ボーカルの魅力やサウンドの切れ味が埋没してしまうパターンもある。
が。
セカオワにおいては、そういうことが一切ない。
どういう装いを選択したとしても、というより、どの装いにおいても、ちゃんと楽曲ごとの然るべき選択ができているため、そのアレンジが見事にハマり、そのアレンジが完璧に「セカオワの音」になっている。
どういう振り幅にもっていったとしても、見事にセカオワの音楽として着地するのだ。
これは、正直、セカオワにしかできないことだし、過去に色んなアプローチをしてきたセカオワだからこそ到達できた地点のようにも思う。
しかも、今作は、単に装いがリッチであるとか、最先端の音を取り入れてすげえーとか、海外のトレンドに目配せしていて興奮するとか、そういう尺度の「凄さ」ではないのだ。
普通、バンドに対してサウンドが新鮮という褒め方をする場合、その音が海外に接近している、みたいな国内バンド特有の不思議な褒め方をすることが多い。
日本の音楽は世界でみたらトレンド的ではないからこそ、海外のトレンドをアレンジに入れただけで、そのバンドは「世界基準である」みたいな、謎の褒め方をしてしまうのだ。
けれど、セカオワは違う。
トレンドだからその音を選んだのではないし、そういう「薄さ」を音からは一切感じない。
楽曲に対して然るべき装いを選択していたらこうなったみたいなアレンジの必然性があるのだ。
寓話的物語とリアルを丁寧に織り交ぜまたセカオワならではの歌詞と、その歌詞を運ぶメロディーをより素敵な方向に導くために「そのアレンジ」になった、そういう必然性が見えるのだ。
だから、セカオワはすごいのだ。
言ってしまえば、音を選ぶセンスが桁違いなのである。
この「海外のトレンドを抑えているから、それを選択した、というわけではない」というのはポイントで、もしセカオワが単に海外の音楽に目配せしただけのアレンジを選択していたとしたら、今作はもっとトラップとかに舵を切っていたはずだし、セカオワならたやすくそのフォーマットを自分たちの音に落とし込めたはずだ。
けれど、セカオワはそれをしなかった。
どちらかというと、今作はきちんと楽器と向き合ったアレンジが多いし、「YOKOHAMA blues」のように、90年代的R&B的サウンドを取り入れたりもしている。
この音選びの幅広さは、本当に目を見張るものがあると思うのだ。
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Fukaseのボーカルの進化
それまでのFukaseのボーカルはどこか少年的な要素が強かった。
けれど、今回は違う。
歌詞に対する説得力が増していて、女性目線の歌なら繊細で色っぽく歌われているし、ダークな歌ならそれに相応しい声で歌っている。
全体的に言えば、すごく大人っぽくて、落ち着きがあるように感じる。
まあ言ってしまえば、ボーカルに成長がすごく見えるわけだ。
このボーカルのハマり方も実に良い。
セカオワの歌詞世界に、より深く誘われるような、そんなボーカルになっている。
アルバムのコンセプトが凄い
『Lip』と『Eye』。
それぞれ、口と目を意味する言葉。
セカオワが語るところによると、両方とも共通するのは「語るものである」ということ。
『Lip』は口から出ていく建前の言葉であるせいか「こうであったらいい」というような、希望的な曲が多い。それに対して、『Eye』は、目は口ほどにものを言う的な、建前ではなく、本音要素の強い言葉が並んでいるように感じる。
そして、全体的な色合いで言えば、『Lip』は明るくポップな歌が多くて、『Eye』はダークでどこかシリアスなトーンの歌が多い。
ちなみに、『Eye』の「夜桜」と『Lip』の「向日葵」はほぼ同じメロディで、テンポや曲調が異なっている。
この2曲に対称的なアレンジを施すことで、同じようなテーマを歌っていても、その歌から見える背景やメッセージのようなものに大きな違いが生まれている。
これは、このアルバムのコンセプトや本質とも繋がる要素であるように感じる。
まさしく、この二枚のアルバムが、表裏一体であることを感じさせる仕上がりになっている。
でも、前述したような、単なるわかりやすい方程式に完全に当てはまるかと言えば、そんなことがないのもまた面白くて、セカオワらしい。
例えば、『Lip』に収録されている「ラフレシア」は歌詞だけでみていくと、『Eye』のアルバムに収録されていそうな刺々しい言葉が踊っている。
『Eye』に収録されている「すべてが壊れた夜に」が持つ勇敢さやゴスペルが描く希望の匂いは、『Lip』に収録されていてもよさそうな作品に感じる。
つまり、この二作品は、完全に白黒をつけたり、わかりやすい勧善懲悪で分断しているのではないということ。
どちかと言えば、この二枚のアルバムを通じて、人の深い部分まで掘り下げるとともに、人は簡単に色分けをすることができないという、「奥深さ」を提示しようとしている。
間違いなく言えるのは、二つの対になった作品を通じて、人の本質を描くような構成になっているということであり、アルバムの世界に入り込めば入り込むほど、このアルバムの奥深さを痛感するということである。
このアルバムがすごいと言えるのは、そういう「深さ」が底なしだからでもあるわけだ。
まとめに替えて
もちろん、先ほど述べた項目に関しての、受け取るメッセージは人によって違うと思う。
なにより、この作品から得られるメッセージはこういうことである、というような寓話解説をして、それでお終いになるような作品ではない。
言いたいのは、この作品は一辺倒にして一つのメッセージしか受け取れないような浅い作品ではないということ。
色んな切り口から、色んな見方をすることができる、複雑な作品であるということだ。
しかも、それは歌詞という観点、テーマという観点、楽曲アプローチ、アレンジなど、様々な方向から感じ取れるということ。
ここが、何よりも凄いのだということは、声を大にして言っておきたい。
はっきり言って、こんなアルバム、滅多に出てこないと思う。
この二作品は、2019年の日本の音楽にシーンに燦然と輝く名作である。
僕はそのように思う。
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