前説

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最初のフルアルバムは自分の色を全開にしたら、それが圧倒的な個性になるし、圧倒的な魅力になる。

なにより、活動をはじめてからデビューまでが製作期間となるため(基本的には)一番制作時間をかけて作ったアルバムになるため、濃密な作品になりがちである。

秋山黄色の『From DROPOUT』は、まさしくそういう作品だと思う。

タイトルにあるドロップアウトという言葉は、自分のそれまでの生活を投影させた言葉だろうし、自分の核をそのまま作品に投影させた意志表示ともとれる。

実際、このアルバムは秋山黄色が持つ衝動や破壊力みたいなものがふんだんに表現された作品となっている。

秋山黄色ってどういうタイプのアーティストなの???と訊かれたら、黙ってこれを聴け、と言いたくなる、そんな密度のアルバムである。

ただ、ファースト・アルバムでさらけ出すだけさらけ出したらからこそ、セカンドアルバムがどんな色合いを帯びるのか気になるところだ。

極端な話だが、前と同じような色を魅せただけでは、前作の焼き直しのように見えてしまうし、「前作の方が良かった」という評価になってしまう恐れだってある。

単純に自分の色を全開にするだけでは前作を超えられない、というところがセカンドアルバムの難しさである。

そんな秋山黄色は『FIZZY POP SYNDROME』という作品をリリースする。

本編

秋山黄色の『FIZZY POP SYNDROME』について

ロック色の強く提示した前作と対峙させるかのように、セカンドアルバムのタイトルには「POP」の文字が。

ただし、今作は前作と違ってロック色がナリを潜めたかのかといえば、そんなことはない。

むしろ、「LIE on」の冒頭からゴリゴリにエレキギターの音が炸裂する。

キャッチーなメロディーラインと攻撃的なロックサウンドの融合。

前作でも鮮やかに展開された秋山黄色の魅力が花開いていく。

「サーチライト」や「月と太陽だけ」と立て続けに聴いて感じるのは、むしろロックを炸裂させることが、秋山黄色にとっては<ポップ>になるという感覚。

秋山黄色はジャンルとしてのロックをやろうとしてバンドサウンドを効果的に使っているというタイプのアーティストではない。

自分の表現したいものを音に落とし込んだ結果、ロックな色合いの強いものが並んでいる、そういうタイプのアーティストのような気がするのだ。

なので、逆説的な言い回しになるのかもしれないが、秋山黄色がポップを表現すると結果的にロックな色合いを強く帯びていく。

なぜなら、秋山黄色におけるロックテイストは表現における結果としてあるものだから。

そんなことを感じるのである。

4曲目では、まさしく秋山の<核>と接近するかのように、「アイデンティティ」が配置される。

秋山黄色らしいやり方で、秋山黄色の魅力が投影される楽曲の数は力強くも、繊細で美しい。

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変わったものと変わらないもの

冒頭l、前作との比較からこの記事をはじめたわけだけど、秋山黄色の今作は一体何が変わったのだろうか。

自分が感じたのは、歌の中にある眼差しである。

ファーストアルバムは『From DROPOUT』というタイトルからあるように、ある種の内向的な視座であったり、内側の衝動にスポットを当てた歌が多かったような気がする。

というよりも内側に溜めていたものをアルバム通して外側に向けて吐き出したような衝動性があったように思うのだ。

しかし、セカンドアルバムは外側に触れた秋山黄色が生み出したもの、というテイストが強いように感じるのだ。

タイアップ作品が多いのも、そういうテイストを感じるひとつの理由になる。

「夢の礫」は「映画 えんとつ町のプペル」挿入歌である。

その他にもドラマ主題歌もあれば、アニメのタイアップ曲もある。

外側のものにインスパイアされて生まれた、新しい価値観で構築された秋山黄色の楽曲がそこにあるように感じるわけだ。

「ゴミステーションブルース」のような歌も、どこか眼差しは外に向いている気がする(だからこそ、街の描写が鮮やかに表現される)。

こういう眼差しの向き方であったり、外側との衝突の仕方に、秋山黄色の表現に進化を覚えるのだ。

その進化こそがファーストアルバムにはなかった感動を生み出していく。

もちろん、前作も素晴らしかった。

でも、今回のアルバムは間違いなく今の秋山黄色にしか表現できないものがある。

だからこそ、前作を超えた感動がそこにあるのだ。

そんなことを思うのである。

ただし、ベースの部分は変わっていない。

キャッチーかつトリッキーなソングライティングだったり、衝動とひねくれた感性がいい感じに混じり合った眼差しだったり、躍動するロック色だったり。

秋山黄色が持つコアな部分は変わっていないからこそ、より秋山黄色の表現が研ぎ澄ませていると言ってもいいのかもしれない。

そして、さんざんゴリゴリかつ疾走感のある曲で冒頭は飛ばしてきたのに、ラストの「PAINKILLER」では、しっとりとしていて、言葉がぐっと際立つ構成になっているのも良い。

傷を肯定しながらも、また次に進む決意表明する歌。

むき出しの感性で、最期まで突き抜けていくのである。

だからこそ、このアルバムを聴いていると、どこまでも感動するし、この衝動的なロックサウンドがぴたりとハマり、ぐっとくる。

この感動は、秋山黄色の作品でしか感じることができない感動だと思う。

まとめ

作品をリリースするごとにその作家性を研ぎ澄ます秋山黄色。

きっとこれから先もとんでもなく化けていくのだと思う。

まあ、それよりも何よりもセカンドアルバム『FIZZY POP SYNDROME』が間違いないアルバムだった。

なので、よりたくさんの人に聴いてほしいなーなんて、そんなことを切に思うのである。

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