秋山黄色の「見て呉れ」から感じる、アーティストとしての軸と進化

秋山黄色の楽曲が好きで、わりと毎回ブログでも取り上げている。

毎回ブログで取り上げるのは、楽曲が好きだからだ。

それに尽きる。

では、なぜ秋山黄色の楽曲が好きなのかと問われたら・・・。

それは、「自分のツボだからだ」という話に行き着く。

それだけの、すごくシンプルな話である。

ただ。

(一見すると)秋山黄色と似たような立ち位置の男性ソロアーティストっていくつもいると思うのだ。

いや、もちろん、本当の意味で<同じ>アーティストなんていないし、そもそも別に秋山黄色って誰かに<似ている>よなーなんてまったく思ってはいない。

んだけど、秋山黄色を若手男性ソロアーティストの一人として捉え、そこからパブリックなイメージを抽出したとき、<こういう装い>の男性ソロってけっこうな数がいるように見えるのかなーなんて思うのだ。

いずれにしても、世の中に若手男性ソロアーティストってたくさんいるわけで。

しかも、どのアーティストも表現力のレベルが高いため、ちょっとやそっとの技術で差別化をはかることが難しいわけで。

なかなか<同じような感じ>から抜け出すのって、難しいと思うわけだ。

実際の個性はまったく違っていても、なんとなくネット発の男性ソロアーティストだったりすると、米津玄師っぽいとくくられるケースだってどうしてもあるしね。

何が言いたいかというと、世の中にはたくさん男性ソロアーティストがいる。

そんな中で、自分は秋山黄色は別格的な魅了をされている。

それはなぜなのか、ということを説明したいわけだ。

で、これに対する答えはわりと明確にいくつかあって。

この記事では、「見て呉れ」の感想を踏まえながら、そのことについて書いていきたい。

秋山黄色の「見て呉れ」の話

ロック色の強い、力強いボーカル

ロック性のある男性ソロアーティストって多い。

でも、こういう場合の<ロック>ってジャンルのことを指差していることが多い。

あるいは、ギターが炸裂したアグレッシブなナンバーを指差して、そのアーティストのことを<ロック性>と称していることが多い。

もちろん、秋山黄色もそういう範疇の<ロック性>を持っている。

なんなら、「見て呉れ」もまた、そういうアレンジが冴え渡る一曲である。

ただ、秋山黄色が持つロック性って、そこで収束しないのだ。

というのも、秋山黄色って<ロック>というジャンルをやりたいから、ロックな音を選んでいる感がしないから。

表現したいことがまったく別にあって、その内に秘めた想いや感性を音楽として表現すると、結果としてロックになってしまったような質感があるのだ。

ジャンル的にロックであることは後からついてきた話で、秋山黄色って本質的にロック性の強いアーティストなのである。

そんな風に思うから、他の男性ソロアーティストとは違う魅力を解き放っているように感じるのだ。

また、最近の若手男性ボーカルって、声の線が細いことが多い。

けれど、秋山黄色はボーカルに勢いがあるというか、力強さを発揮している。

この歌声もまた、秋山黄色ならではのものを強く感じるし、それが不動のロック性につながっていく。

軽やかに逸脱するロック性

先ほどの項目とも繋がるんだけど、秋山黄色って、こういうジャンルの音楽をやりたいということを優先しているタイプのアーティストではないように思う。

もっと別のところに表現したい何かがあって、それを表現するためには結果としてロックな音が選ばれている・・・みたいな印象を受けるわけだ。

逆にいえば、表現したいことがロックな音である必要がない場合は、迷いなく違うジャンルの音を選び取る嗅覚がある。

「見て呉れ」でも、そういうエッセンスを至るところに感じる。

というのも、この歌の冒頭は、まったくロックとは違う手触りで始まる。

裏声の秋山黄色。

サウンドはどこか不穏な手触りで、独特の旋律を奏でることになる。

このロックであることを軽やかに逸脱する感じもまた、秋山黄色の魅力だよなーと思うわけだ。

軸にあるものは別にジャンルではない。

別の何かが軸にあって、それを大切にするように音を積み上げる。

ほんと、「見て呉れ」て面白い楽曲構成である。

冒頭と1番で表情がまったく違うし、1番と2番でもまったく表情が変わる。

ロックっぽい展開になったかと思えば、ラップっぽい畳み掛けをみせるパートもある。

常に秋山黄色そのものを進化させながら、然るべき表現を全力で行ってみせるのだ。

そんな心地がするから「見て呉れ」はずっとドキドキする。

ロックであるときも、ロックからはみ出すときも、変わることのないロック性を感じさせてくれるから、ドキドキしてしまうのである。

なにより。

多彩なサウンドを展開している楽曲のはずなのに、変なブレを感じさせない仕上がりになっているのも特徴だよなーとも思うのである。

怒涛の展開なのに、様々なパートを魅せるのに、一曲として綺麗にまとめっているようにも感じるのだ。

そう。

そのどれもが<然るべき表現>だからこそ。

まとめ

またしても、秋山黄色の魅了されちまったぜ、というのがこの記事の総意。

「見て呉れ」をまだ聴いていない人は、ぜひ聴いてみてほしいなーと切に思うばかりである。

というわけで、今回はこの辺で。

ではではでは。

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