忘れらんねえよが全然笑えねえよ
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6月のとある休みの日、友人に誘われて名古屋の音楽フェスに参加した。FREEDOM NAGOYA。無料フェスという形態ながら実に豪華なバンドが揃うこのフェスは、名古屋を代表するフェスのひとつだ。
当日、僕が朝一発目に見たのは忘れらんねえよだった。
その名前を耳にすることはあったし、なんとなく面白いことしてるバンドだよなーという漠然としたイメージは持っていたものの、実際にじっくりと曲を聴くこともライブを見ることもこれまでなかった。
初めて見たライブでの忘れらんねえよ・柴田はイメージのまま破天荒そのもので、会場も常に笑いに包まれていた。
客の頭上をウルトラマンの飛行シーンさながらのポーズで流れていき、舞台から遠く離れた場所でビールを受け取り、客の頭上で立ち上がって一気する柴田も、「踊れ引きこもり」を歌っている途中で本来なら女性SSW風の曲が流れるところが機材トラブルで流れず、代わりにまんま西〇カナを歌い出した柴田も、ライブの途中で別のアクトに移動しようとした客を指さして「ちょっと待って!マリーゴールド歌うから!」と嘘をついてまで引き止めていた柴田も、全部ドメスティックなエンターテインメントだったし、僕も何度となく笑った。
ライブの最後に柴田は新曲として「だっせー恋ばっかしやがって」という曲を歌った。
好きな子とうまく話せない君へ
だからといって酒に頼る君へ
流れ星の降る夜に告白をして
秒速でフラれる君へ
それは、どうしようもなく不器用な男の歌だった。
想いを寄せる女性へ上手くアプローチが出来ず、自分以外の力を借りて想いを伝え、瞬時にフラれてしまうどうしようもねぇ情けねぇ男の歌が会場を包んでいた。
気付けば僕は、彼の歌声になんだかほんの少しだけ泣きそうになっていた。
帰宅し、改めて忘れらんねえよの曲を色々と聞いてみた。ひとりで聞く忘れらんねえよの曲は、ライブの時とは違って何故だか全然笑えなかった。
「ダサい恋」は時として喜劇になりえるものである。
例えば映画「モテキ」では、主人公の幸世がフェス会場で知り合った女性にフラれ、大江千里の「恰好悪い振られ方」が流れる中で泣きながら走るシ―ンがある。
「モテキ」を何度見てもあのシーンに僕は笑ってしまう。あのシーンが代表するように「ダサい恋」は笑いになりうるのだ。
ではなぜ僕は、忘れらんねえよの曲で笑えなかったのだろう。
それは、忘れらんねえよが歌う男が、誰も彼も皆ひとりぼっちだからである。
誰かと共に愛を育んだり、想いを寄せる女性と両想いになったり、そんなことは彼の曲の中では起こらない。
忘れらんねえよが歌う男は皆、「誰かと繋がる」ことが出来ない男達だ。ひとりぼっちのまま、誰かを勝手に愛して、勝手にフラれている。
「ダサい恋」の典型のような歌詞だ。
だっせー恋なんかしたくねえ
だっせーことなんかしたくねえ
それでもやらかしてしまう
何度も何度も何度もやらかしてしまうなんでだ
苦しくて 苦しくて
きっと僕だけでなく、孤独を感じている沢山の人たちはきっと忘れらんねえよの楽曲が全然笑えない。
ひとりぼっちで、勝手に恋して、勝手にフラれて、勝手にキレて。
そんな忘れらんねえよのどうしようもないほどひとりぼっちな曲たちに、孤独な人間は痛い程の共感しか出来ないからだ。
誤解を恐れずに言えば、忘れらんねえよに共感する人生よりも、忘れらんねえよに共感しない、忘れらんねえよに無縁な人生の方が幸せだと思う。
誰かと簡単に繋がることの出来る人生の方が楽しいと思うし、大半の人たちはそういう人生を歩めることだろう。ひとりぼっちの人生よりも、誰かと好き合う人生の方が楽しいはずだ。
でも、忘れらんねえよが紡ぐ、荒っぽくも孤独で繊細な言葉は、ひとりぼっちで生きている沢山の人間を救う。
忘れらんねえよに共感する者はきっと同時に救われる。
99%の人間に共感されず、鼻で笑われようとも、1%の人間を絶対に救い、涙させる。
それが忘れらんねえよの音楽だ。誰かを救う音楽を、誰が笑えようか。
だっせー恋ばっかしやがって
だっせーことばっかしやがって
君が逃げずに
何度も何度も何度も何度もがんばってること知ってる
僕らよ 僕らよ 輝け 輝け いつか
忘れらんねえよが全然笑えない。
それは忘れらんねえよが孤独な人間を救う、歪なのに美しい音楽だからこそである。
きっと忘れらんねえよはこれからも、沢山の「1%の人間たち」を救い続けることだろう。いつかその1%が輝けるその日まで。
筆者紹介
音楽を中心としたカルチャーをこよなく愛する25歳。ブログ「Hello,CULTURE」を運営。 会社員の傍ら、カルチャーライター目指して日々奮闘中。サザンオールスターズ、Base Ball Bear、吉澤嘉代子などが特に好き。
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