三浦大知の「能動」の前では、語彙力が全て無力化してしまう
三浦大知の「能動」を初めて聴いて、自分の語彙力は木っ端微塵に崩れてしまった。
これでも、ブログをはじめて8年だ。
三浦大知の作品と真摯に向き合ったのはアルバム『球体』からだから、そこから数えても5年ほどの歳月が経過している。
それでも、一応、自分なりに実直に作品に対して感じたことを言葉にしてきたつもりだった。
でも、「能動」は、そういう自分の感性で上手く「凄さ」が言葉にできないなーとなって、なかなかブログの記事にできずにいたのだった。
端的に「能動」の感想を書くならば、”これまでの三浦大知の楽曲っぽくない”ということに始まる。
ただ、こういう書き方をすると、「この歌って要は三浦大知の新天地的な一曲なんだね」と聞こえ方がしてしまう気がする。
いや、確かにそういう作品があるんだけど、単に「新天地な一曲なんだ」と言い切るだけで済ましてしまうのは、少し憚れる部分があるのだ。
これだけだと、これまでやってこなかったジャンルにチャレンジしてきたという意味にしか聞こえない気がしてしまうからだ。
それは、違う。
どちらかうというと、「能動」はジャンル的な斬新で魅せている類の歌ではない。
いや、ラテンっぽいテイストと、組み合わせる音のレイヤーが絶妙な一曲ではあるんだけど、自分的にはもっと違う部分で驚き、興奮し、ワクワクした心地を覚えるのだ。
ただ、何に驚いたのかをつぶさにみていくと、三浦大知のボーカルにあるよなーとは思った。
というのも、この歌における「三浦大知っぽくない」というのは、これまでの三浦大知の歌ってきた楽曲と異なるテイストである、と意味よりも、これって本当に三浦大知が一人で歌っているの?に強く依拠しているように感じたからだ。
「能動」は、びっくりするほどに、パートごとのボーカルの表情がまったく異なるのだ。
パートごとに、まるで別人が歌っているような心地になるし、このボーカルのコントラストが「能動」の大きな魅力になっている。
この歌って、三浦大知っぽくないというか、三浦大知ってこういう表現ができるアーティストという像をぶち壊した印象の楽曲だし、それよりももっと大きな枠組み、例えば、男性ソロアーティストができる表現、という意味でも、大きな一石を投じている作品な印象を受けるのだ。
なんせ、この歌って三浦大知という男性ソロアーティストが歌っている楽曲と言われるよりも、多人数のグループが歌っている楽曲だ、と言われる方が腑に落ちるような作りになっているからだ。
「能動」という楽曲は、実は多人数のグループの楽曲である、と言われたらすごく腑に落ちる。
例えば、冒頭の<動け 動け>のフレーズから<不言実行>までは、ハスキーがかったボーカルの、ラップが得意なメンバーに歌わせると映えそうなパートだ。
あのグループであれば、このメンバーが歌うと映えそうなパートだなあ・・・というイメージが作りやすいトーン。
今作はこういうエッジの効いたボーカルを軸に据えていくのかな。
・・・そう思ったら、<音を鳴らそう>のパートに入ると、ボーカルの表情がガラリと変わり、三浦大知の溌剌としたボーカルが登場する。
まず、このコントラストに度肝を抜かれる。
いや、確かに男性ソロアーティストでもAメロとBメロでがらりとボーカルのトーンを変えることはあるし、ラップと歌を組み合わせる楽曲だって世にたくさんある。
でも、そういう楽曲の場合、ひとたび歌のモードに入ると、しっかり歌を聴かせる構成に変化していくはずなのだ。
でも、「能動」は違う。
<音を鳴らそう>で、いつもの朗らかな三浦大知の歌声を披露したかと思うと、<動けば動くほど>のフレーズでは、また低音ハスキーなボーカルが痛快なラップを披露する。
実際に楽曲を聴くとわかるが、短い尺の間で、どんどん展開を変えていくことがわかる。
<自由自在>のパートでは再び、歌のモードに切り替わっている。
が、ここでも「普通」では終わらない。
その前の歌パートでは、比較的朗らかな三浦大知のボーカルが顔を覗かせていたが、次の歌のパートではファルセットの入り混じった不思議な響きの声を聴かせることで、不思議な空気を作り上げていく。
<その時まで>でサビに入るわけだが、普通にそれまでのパートだけで6人組くらいのボーカルグループであれば、全員のパートと見せ場を用意できるほどに、鮮やかにパートごとに表情が変わっていくのだ。
単にラップと歌を組み合わせているだけではなく、パートごとに明確にボーカルの表情が変わっているのだ。
低音ハスキーな一面もあれば、ファルセット混じりの艶やかな歌声を披露する瞬間もある。
朗らかなトーンの歌声も披露する瞬間があれば、ファニーなトーンの歌声を披露する瞬間もあるのだ。
よく三浦大知は歌って踊ることが凄い、と評されてきた。
で、近年は実は歌の上手さを際立たせる楽曲を力強く披露してきた。
それで、表現者としての三浦大知の凄さは概ね魅せていると思っていた。
でも、違っていた。
歌が上手い、は前提とした上で、ボーカルだけで多人数のボーカル楽曲のような迫力を生み出す、表現の幅も持っていることを実感させることになるのだった。
楽曲を聴くと、その密度の濃さにびっくりする。
なんというか、不思議と楽曲を聴くと、良い意味で緊張がみなぎり、楽曲を食い入るように聴いてしまうのだ。
だから、この楽曲が尺としては2分40秒しかないことをあとで知り、驚いてしまうことになる。
もっと長尺の楽曲を聴いたときのような充足感がこの歌にはあるからだ。
最後の「全ての賭けて」の「て」をしっかりと伸ばすところの緊張感もぐっとくるし、そこから叫ぶように声を伸ばして、最後の英詞に繋げるボーカルの流れも秀逸である。
無音すらも豪華なアレンジに変えてみせるように、アレンジとシンクロしながら声を紡ぐ三浦大知の表現は、そういう意味では新境地に辿り着いたと言えるのかもしれない。
そんなことを、ふと思うのである。
まとめに替えて
この歌を聴き終わった頃に、ひとつ思ったことがある。
実は、今年、数年ぶりに三浦大知のライブに行くことにしており、先にチケットを購入していたのだった。
そして、今回の三浦大知のツアーのチケットを先に購入していて良かったと、心底思うのだった。
2023年10月5日(木)18:30 フェスティバルホールでの公演。
自分がいく予定のライブである。
「能動」という、こんな素晴らしい楽曲を聴いたからこそ、より思うのだ。
こんなにも素晴らしい表現に触れて、実際にその表現を生で目撃しないで、今年一年を終わることができないよな、と。
「能動」をツアーで披露するのかは知らない。
けれど、今のモードに行き着いた三浦大知の表現は確かにその目に焼き付けるべきものであることを実感したし、ボーカルとしても、ダンサーとしても、エンターテイナーとして磨かれたそれを単純に五感の全てで感じたいと思った結果、チケットを購入したのだった。
そして、そのワクワクがさらに大きなものになったのは、「能動」という楽曲にこのタイミングで触れることができたからだ。
それくらいに今作に興奮したんだということを、この記事の末尾に記して、駄文になったこの記事のまとめにかえさせてもらえたらと思う。
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